
2026/11/05
毎年10月、ノーベル賞受賞者の発表時期を迎えると、日本中が独特と言っていい期待と熱狂に包まれる。
メディアは、日本人受賞者の人となりや研究のドラマを華々しく報じ、街頭では号外が配られる。その光景は、わが国が今なお世界をリードする科学技術大国であるかのような錯覚と安心感を国民に与える。
しかし、近年の受賞理由となった研究成果の多くは、現時点での日本の科学技術の水準を示すわけではない。
ノーベル賞にふさわしい業績の検証や社会的影響を見極めるためには、10年、20年の時間差が生じるのは当然だ。
戦後日本を勇気づけた1949年の湯川秀樹氏のノーベル物理学賞も、戦前の1935年の論文が授賞理由だった。
山中伸弥氏が2006年と2007年に発表したiPS細胞に関する業績で2012年のノーベル生理学・医学賞を受賞した事例は、むしろ例外的な早さだ。
近年の日本人研究者のノーベル賞受賞の多くは、その意味でいえば、過去の遺産の確認であるとも言えるだろう。
しかし、現在に目を向ければ、日本の科学技術の状況は危機的である。
文部科学省の科学技術・学術政策研究所などのデータを見ても、質の高い論文(被引用数上位10%)の数において日本の世界順位は長期低迷を続けており、中国や米国に比して、かつての圧倒的存在感は見る影もない。
現場では研究者が研究に専念できる時間は減少の一途をたどり、博士課程進学者数は頭打ちとなっている。
なぜ、これほどの衰退と惨状を招いてしまったのか。
その最大の元凶は、科学技術研究の本質が「効率性」にはないという点を看過し、政策主導によって研究分野のターゲティングを行い、それに従った資金の配分を行ってきた政策的過誤ではないか。
そうした誤った政策遂行のために、研究現場に事務的なペーパーワークを膨大に求め、そうした事務によって研究費を獲得すること自体が研究者の仕事のようになっている現実を直視しなければならない。
かつて日本が科学技術大国と自他ともに認めていた時代に、研究現場を支えていたのは、自由度の高い予算であった。
これにより、研究者は成果の予測もできない独創的で探索的な研究や、地味だが重要な基礎研究に没頭できた。
しかし、国は基盤的経費を削減する一方で、自らが定めた「成長分野」や「イノベーション創出が期待できる特定の領域」に対して選択的に巨額の競争的資金を投入する方針へとかじを切った。
政府の「限られた財源を効率的に使い、国家戦略に直結する研究を支援する」という論理は、一見合理的だ。
しかし、この一見合理的な論理こそが、日本の科学技術の多様性を阻害し、研究現場を荒廃させた主犯ではないか。
科学史が証明しているように、真のイノベーションやノーベル賞級の発見は、当初は予想もつかなかった場所や、一見役に立ちそうにない知的好奇心から生まれることが多い。セレンディピティだ。
どの研究が将来花開くかを、官僚や政家が事前に判断することは不可能であるはずなのに、ターゲティングがなされると、その分野に資金と研究者が殺到し、多様な研究の「苗床」は失われていく。
さらに罪深いのは、政府が「科学技術投資の予算規模」を増やせばよいという発想しか持ち得ていないように見える点だ。
近年も「10兆円規模の大学ファンド」などが話題を呼んだが、その運用益が届くのはごく一部の「国際卓越研究大学」に限られる。政策の失敗によって荒れた土壌を放置して、特定の「温室」にだけ肥料を注ぎ足しても、作物は豊かに実りはしない。
現場の研究者たちは今、提出期限と成果指標に追われながら、数年単位の短期的な申請書を書く作業に追われている。
政府から提示されたターゲットに合致するよう言葉を飾り、研究の「演出」に多大な時間を費やす。場合によっては、本末転倒なことに、すでに成果を確認した研究をあたかもこれから行うかのように作文をして確実に研究費を確保していこうとする。
このような環境から、世界を驚かせ、人類全体に貢献する研究成果が生まれるはずもなく、若者は研究職の不安定さと自由のなさ、そして何よりも「つまらなさ」に絶望して、アカデミアの道を回避する。
10月のノーベル賞発表に狂騒、陶酔して「わが国の科学技術力はすごい」と自己満足に浸るようなことは、もう終わりにしなければならない。
いま、真に必要なのは、科学技術研究という営みの本質に立ち返ることである。
不確実性を受け入れ、一見役に立たない研究をも包摂する許容度と自由度の高い政策への転換が必要だ。
一つのモデルは、ハイリスク・ハイリターンの不確実性を許容する米国のDARPA(国防高等研究計画局)だが、「日本版DARPA」を標榜する政府のこれまでの取り組みは、似て非なるものに止まる。
研究現場の知的好奇心と自律性を支える基盤的環境を構築する以外に、日本の科学技術が崩壊の淵から逃れて這い上がる道はない。
(月刊『時評』2026年10月号掲載)