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【時事評論】正念場の2022年

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「民主主義の危機」は乗り越えられるか


 2022年を迎える。

 いったい、どのような世界を私たちは生きることになるのだろうか。

 国際的には、10月の米国中間選挙と11月の中国共産党大会を見据えて米中覇権対立の動向がどうなるか、その中で日本がどのような意思決定を積み重ねて隘路を通り抜け、いかなる未来を目指すのかが問われる年になる。

 国内的には、コロナ禍への対応とともに、岸田総理が打ち出した「新しい資本主義」の旗の下、中間層の再生に向けた動きが本当に始まるかがポイントだろう。その際、すでに足音の聞こえている悪性のインフレが大きな障害となり得ることに注意が必要だ。

 その他にも、長らく「宿題」状態となっている地球環境問題、少子高齢化問題、財政再建など、対応すべき課題は山積している。

 2022年は、こうした多くの課題に取り組む基盤として、わが国の「民主主義」の真贋が問われることになるだろう。

 岸田総理大臣は、昨年の自民党総裁選において、「民主主義の危機」を強く感じたので立候補したと述べた。

 その後も「引き続き民主主義の危機の中にあると思っている」とした上で「コロナ禍で国民の思いが政治に届いていないのではないか、政治の説明が国民の心に響かないという状況をもって、民主主義の危機と申し上げた」と説明している。

 そのために「国民との対話、意思疎通、丁寧で寛容な政治姿勢をとり続けることが、国民の政治への距離を縮める重要なポイントだ」とも語っている。

 おそらくは岸田政権の下で、2022年夏、参議院選挙がある。昨年の総選挙が岸田政権への期待表明だったとすれば、参議院選挙は岸田政権の実績に対する評価となろう。

 言うまでもなく、選挙こそは近代民主主義国家において、主権者たる国民が意思表明を行う重大事だ。

 国民の思いを受けとめ、丁寧に政治の説明をして意思疎通を図ることはよい。

 しかし、国民の思いを受けとめた結果が、選挙目当てのその場しのぎのバラマキでは困る。

 経済産業省の元キャリア官僚二人が新型コロナウイルス対策の「家賃支援給付金」と「持続化給付金」を詐取したとされる事件について、捜査関係者によると「(給付金は)国が金をばらまく制度。取れるものは取ろうと思った」などという供述があったと報じられている。

 彼らの罪は許されるべきではないが、制度を所管する省庁のキャリア官僚が「国が金をばらまく制度」と断じたことの重たい意味を看過してはならない。人々のセーフティネットは、生活保護制度をまっとうなものにすることで整備すべきだ。

 「民主主義の危機」は、政治が自らの権力基盤を気遣い安易な人気取りに走って国家百年の計を忘れ、国民が自らの損得勘定のみを思って「パンとサーカス」を求める時に、より深刻な様相を呈する。

 そうした悪しき傾向を助長するようなバラマキ政策を慎み、日本が目指すべき国家像を国民に丁寧に説明をして合意を得ていくことが「民主主義の危機」を乗り越えていく道のはずだ。

 民主主義の基礎は、自立した個人だ。その個人を国家に過度に依存させ、個人の自由と尊厳を損なうことこそ「民主主義の危機」である。

 1961年1月20日、アメリカ合衆国のケネディ大統領は、その就任演説において「最も危険な時代に自由を守る役割を与えられた世代は、世界の長き歴史においてもほとんどない。私は、この責任を恐れず、むしろ歓迎する」などと述べた上で、「国民諸君よ。国家が諸君のために何ができるかを問わないで欲しい。諸君が国家のために何ができるのかを問うて欲しい」という有名な言葉を国民に投げかけた。

 このような呼びかけに、国民もまた賛意を示し、彼を熱烈に支持したのである。

 翻って、わが国において、国民に対して民主主義の担い手であることを自覚した行動を求めた政治家がどれだけあるか。

 民主主義が資本主義とは全く異なる原理であることを忘れ、あたかも、国民を顧客であるかのごとく扱う「政治ビジネス」は、国民こそが民主主義の主体であることを忘れさせ、国家への依存を強めさせ、この国を衰亡させはしないか。

 ケネディが「自由を守る役割」を自らの世代が背負っているとしたことになぞらえるならば、今、権威主義的な巨大国家を隣人に持つ日本は、民主的で自由な国家と権威主義的な国家のいずれが望ましいのかという人類史的競争の過程にあって、「民主主義と自由を守る役割」を担っている。

 ひらたく言えば、人々が「こんな国ではなく、あんな国に生まれたかった」と思うのはどちらかが問われている。

 このような認識に立って、健全な民主主義に基づいて、多くの課題を克服していくことこそが、今の日本に求められている。

 2022年は、わが国が「民主主義の危機」を乗り越えていけるかどうかの正念場だ。
                                                (月刊『時評』2022年1月号掲載)