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【時事評論】物価高対策のあるべき形

市場を信じよ、そして恐れよ

 令和7年度の予算は、少数与党の石破政権の下で辛くも3月31日に成立した。

 自民党は「熟議」の結果としたが、野党からすれば、石破政権を攻撃しつつ、しかし退陣はさせない方が来るべき参議院選挙で有利だという政治的判断の結果であるという側面は否定しがたい。

 この予算をめぐる攻防の中で、石破総理大臣は、新年度予算成立後に「強力な物価高対策」を打ち出す考えを参議院予算委員会で示し、審議中の予算案をないがしろにして新たな予算措置を打ち出すのかという批判を受けた。

 批判を受けて、石破総理大臣は「私の発言により、予算委員会の審議中に心配や迷惑をかける形となり、申し訳なく思う」と陳謝した上で、「私が申し上げた趣旨は、新たな予算措置を打ち出すということではなく、今年度の補正予算や新年度予算案に盛り込んでいるあらゆる政策を総動員し、物価高の克服に取り組んでいくということだ」と釈明するに至った。

 他方、3月30日、自民党の小泉前選挙対策委員長は、記者団に対して、夏の参議院選挙に向けて「大きな強力な物価高対策」を打ち出す必要があるとの考えを示した。自民党として選挙に向けて取り組むという。

 現在、さまざまな財・サービスの価格が上昇していることは間違いがない。苦しい思いをしている人々がいることも確かだ。政治が、これを何とかせねばならないという使命感を持つことは決して悪いことではない。むしろまっとうな感覚だ。

 問題は、何とかしようとする中で「正しい対策」を実行できるか、であろう。

 物価高というが、虚心坦懐に現状を観察すれば、いくら言い換えをしてみたところで、事の本質は、日本はインフレになったということだ。

 株価の上昇、不動産価格の上昇、食料品価格の上昇、サービス価格の上昇、ガソリン価格の上昇、電気料金の上昇、これらは決して実体経済における需要が旺盛であるが故に起こっているわけではない。

 長らく続いた異次元の金融緩和や、大規模な財政支出によって、市場にマネーが大量にあり、人々のインフレ予想が高まったことに起因して、大量のマネーの流通速度が上がってきたのである。

 さらに、金融緩和と大量の国債発行などによってもたらされた円安傾向が、エネルギーや食糧を輸入に頼る日本の脆弱性をついてしまったという状況だ。

 こうしたインフレに対する処方箋は、第一に金融の引き締めである。

 政治にできることは、日本銀行の独立性を尊重して、経済活動の基盤である通貨価値の保全をなさしめることだ。

 また、日本銀行は、目先の景気動向よりも、健全な経済活動の基盤を保全するという組織の存在意義を第一義として、インフレ対策=通貨価値の保全に意を用いるべきだ。

 第二に、政府においては、財政規模の拡大がインフレを抑制するのではなく、むしろ加速させるという単純な理屈と歴史的経験をかんがみて、正しい政策選択を行う必要がある。

 人々にお金をばらまけば(あるいは減税でも同じことだが)、人々の購買力は増加するが、そのために物価はさらに高くなる。それが市場の原理だ。

 むしろ、政府としては、市場原理に沿った形で政策を打ち出し、インフレ抑制を図るべきだ。

 具体的には、現下の日本経済の課題が需要不足ではなく供給不足であることを直視し、供給能力の拡大に向けた政策こそ求められる。

 特に、生産性の向上は、供給能力の拡大に直結するとともに、そこで働く人々の所得を市場原理に従って増加させる。

 政府は、こうした市場の力を信じるべきであり、その力に掉さしてよいことはないという意味で、市場の力を恐れるべきだ。振り返れば、日本列島改造をうたって積極財政を進めた田中内閣の時代、私たちは異常なインフレを経験したのではなかったか。

 もちろん、異常な物価高が急速に進むときには、激変緩和措置は打ち出されてしかるべきだ。

 金融引き締めや政府の政策が奏功するまで、ある程度の時間はかかる。

 その時間差を軽視ないしは無視することは許されない。

 ケインズの「長期的には、われわれはみんな死んでいる」という言葉が示すとおり、短期的な(市場が機能するまでの時間における)対策は、あってしかるべきだ。

 しかし、それはあくまで激変緩和のためであって、市場原理を無視して継続できるものではない。無理に継続すれば、それは市場を否定する共産主義への道だろう。

 市場を信じ、そして恐れて、政府も日本銀行も、あるべき形のインフレ対策を講じることを強く期待したい。
                                               (月刊『時評』2025年5月号掲載)