2024/10/04
国家権力の「制限」は「否定」ではない
コロナ禍のため賛否両論ある中、1年遅れで開催された東京オリンピックで、日本選手の活躍が続いた(金メダルは27個で史上最高、銀メダル14個、銅メダル17個と合わせ総計58個も史上最高、国別で第3位)。
見事な金メダル獲得はもちろん、願った「色」のメダル獲得に至らなくとも、あるいは残念ながらメダル獲得に至らなくとも、多くの人々に感動を与えてくれたアスリート各位には最大限の敬意と感謝を捧げたい。
そうした中、バドミントン女子シングルス準々決勝で残念ながら敗れた奥原希望選手は、試合後「自分が5年間やってきたことの答え合わせが終わった」と語った。
この伝でいえば、1年半以上にわたって新型コロナ対策に四苦八苦してきたこの国も、そろそろ「答え合わせ」が必要なのではないか。
この国の「答え合わせ」というのは、今般の新型コロナ対策を通じてあらためて感じられた「権力の在り方に関するちぐはぐな感覚」に
ついて、その当否を今こそ検討すべきだという趣旨である。
例えば、諸外国で早くから実施されたロックダウンについて、そのような権力的・強制的措置は「日本ではできない」と言われ、「強制しなくとも日本人は適切に対応できる」という「日本モデル」が称賛された。
また、対策の柱とされてきた飲食店の営業自粛等も、強制力のない「要請」ベースで長く続けられてきた。
さすがに、状況悪化を受けて対策強化の必要性が指摘される中、今年2月13日に至って「特措法改正法」が施行され、都道府県知事は事業者に休業や営業時間の変更などを「要請」した上で、正当な理由がなく事業者が「要請」に応じない場合は「命令」でき、これに従わない場合には「過料」を課すことができるようになった。
しかし、この権力的措置が実効性を疑われているのは周知のとおりだ。
東京都内だけで「通常営業」を行う飲食店は4000店を超えるとも言われる中、今年7月に東京都が同法により課したのは、わずか飲食店4店に対する、それぞれ25万円の過料だ。
他方で、「要請」に応じず「通常営業」を続けた「グローバル・ダイニング」は、今年前半の売り上げが前年同期比で92パーセント以上増加して47億円に達した。
このように、「強権的措置が実際には強権的ではない」という状況は、先の大戦後に新たな憲法の下で国家運営を続けてきた「この国の形」であり、自由を尊重するという観点からは大いに評価すべき面もある。
しかし、いつの間にか、権力行使に関する思考停止とも言うべき空気感が強まって、あるべき国家権力の「制限」論が、国家権力の「否
定」論にすり替わってしまっていないだろうか。
例えば、ロックダウンについては、たとえ新型コロナウイルス対策として有効だとしても、国家の都合で国民の自由な移動を禁止すると
いった国家権力による濫用のおそれがある以上、より高次の「権力制限」の観点から慎重に検討した上での判断として「諸外国で行われていても日本ではできない」とすることは適切だろう。
しかし、「公共交通機関や公共の場でのマスク着用義務化」は、新型コロウイルス対策として高い有効性がある一方で、国家権力による
濫用は想像できない。
にもかかわらず、強制的措置になるからできないというのは、権力の「否定」論であり、一種の思考停止である。
あるいは、飲食店についても、営業に際しての安全対策について、詳細な規制(十分な大きさのアクリル板の個人単位での設置など)を実施して、営業を認める方が実際的・実効的であろう。対策のための費用について補助金を出す方が、現在の罪作りなバラマキよりもよほど「安上がり」だ。
そうした「営業を前提とした安全規制」ができない理由も見当たらない。ここにも、強制的措置に関する思考停止がある。
先の大戦を経て、私たちが手にした「立憲的意味における憲法」としての「日本国憲法」は、人権保障と権力分立原理を採用し「権力を『制限』して自由を実現する」という人類が歴史的に多大な犠牲を払って獲得した立憲主義の到達点の一つである。
誤解なきよう強調したいが、当然ながら、私たちはそれを誇りとして守るべきである。
しかし、そのことは、決して国家・国民の「公共の福祉」のために必要な措置を講じるための権力行使を「否定」するものではない。
権力による濫用のおそれがない「マスク義務化」「営業に際しての安全規制」などについて、立法を経て実施することをためらう必要はない。
立法措置を経て、実効的な権力的・強制的措置を講じる方が、権力行使の透明性・適切性も確保できるはずだ。「お願い」ベースでの対応は、責任の所在が不明確となり、むしろ濫用のおそれがある。
他方、適切な権力的・強権的措置を回避する代替措置として、カネのバラマキが採用されているのではないか。積みあがった膨大な借金は大きなリスクだ。
この国の「答え合わせ」として、今一度、権力の「制限」は「否定」ではないことを確認し、国家・国民のための適切な権力行使についてあらためて考えるべきだ。
(月刊『時評』2021年9月号掲載)