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森田実の永田町・霞が関クロニクル1959-2019①

高度成長期――「60年安保」前夜から田中角栄内閣退陣まで(1959~74)

「真正の歴史の目的は、人間の精神を研究することにあるべし」(北村透谷)

敗戦から安保改定へ――(前史1945~58)
 月刊『時評』が創刊されたのは、第2次世界大戦が終わってから14年後の1959年だった。戦後政治の最大の山場となった「60年安保」の前年である。「1959年」を知るためには、1945~58年の歴史を振り返ることが必要である。
 1945年8月15日の天皇の終戦の詔書のラジオ放送(玉音放送)を聴いた者は、74年前のこの体験を忘れることはできないであろう。私の中学1年生の時の体験である。この直後に連合国軍最高司令官のマッカーサー元帥が来日した。日本は連合国の占領下におかれた。日本政府は形式的に存在しつづけたが、マッカーサー総司令部(GHQ)の支配下におかれた。日本政府はGHQの指揮のもとで、天皇が受諾したポツダム宣言を忠実に実行した。日本は明治軍国主義体制を解体し、議会制民主主義国に変身した。天皇は国政の総覧者から国民統合の象徴に変わった。1947年施行の日本国憲法により、日本は国民主権、平和主義、基本的人権尊重を国是とする国になった。
 連合国はポツダム宣言によって、日本に平和と民主主義の国になることを義務付けた。日本がこの義務を履行すれば、占領軍は直ちに日本から撤収することを約束していたが、唯一の占領軍となった米国政府は日本からの撤収を拒否し、日本を半占領状態においた。これを可能にしたのが、対日講和条約と同時に締結された日米安全保障条約(第一次安保)だった。
 1951年9月のサンフランシスコにおける対日講和会議で締結された対日講和条約が発効した1952年4月28日に、日本は形式上は独立したが、しかし日米安保条約によって日本各地に米軍基地が置かれることになり、ポツダム宣言12項の「占領軍撤収」の連合国の日本に対する約束は反故にされた。日本は事実上米国の半従属国にされたのである。
 1945年の第二次世界大戦の終結の2年後に国際情勢に大きな変化が起きた。米国とソ連の対立である。米ソ冷戦が始まった。さらに4年後に中華人民共和国が成立し、米中対立時代が到来した。つづいて1950年に朝鮮戦争が勃発した。1953年の休戦成立までの3年間、世界戦争の危機を孕んだ激戦が朝鮮半島全土で展開された。この国際情勢の激動が日本の政治、経済、社会に変化をもたらした。米国政府は対日講和条約と日米安保条約締結を急いだ。経済面では、朝鮮戦争は日本に「朝鮮特需」をもたらした。
 サンフランシスコ講和条約が発効し、占領が終了し、日本が独立を得たのは、1952年4月28日だった。日本の政府は、1945年から58年の13年間、「明治大日本帝国体制」から、「平和・民主主義国」への大転換を実現した。1947年には国民主権、平和主義、基本的人権保障を基本とする日本国憲法が発効した。1951年には対日講和条約と日米安保条約が締結された。1955年には保守合同と社会党再統一が達成され、いわゆる「55年体制」が成立した。(55年体制は、変形しながら約35年間存続し、1990年代初期の社会党崩壊によって幕を閉じた)。1956年に日ソ国交回復と国連加盟が実現した。1958年、岸信介内閣のもとで日米安保条約改定交渉が開始された。1958年に続く59年と60年は戦後日本の歴史の大きな転換点となった。
 1970年代に日本の歴史についての周期説が流行したことがあった。5年周期説、10年周期説、15年周期説、37年周期説などである。この中で特に注目を集めたのは公文俊平東大教授(当時)の「近代日本は15年小周期・60年大周期で動いた」という説だった。第2次大戦以前は、1886~1900(政治)、1901~15(経済)、16~30(文化)、31~45(紛争)。第2次大戦後は46~60(政治)、61~75(経済)、76~90(文化)、91~2005(紛争)――となる。1945年が前期の終着点であるとともに、次の時代の出発点となった。日本現代史は「政治」「経済」「文化」「紛争」を主軸にした15年間がワンセットになった60年を大周期にして動いたという見方である。たしかに、1945~60年は「政治の時代」であり、1961~75年は「経済の時代」だった。しかし、その後は15年周期は乱れた。米国主導の新自由主義グローバリズムの大波に、日本の政治・経済・社会・文化が飲み込まれた結果である。
 『時評』創刊の年の1959年は「政治の時代」の最後の年の1960年の前夜だった。次は高度成長期、すなわち「経済の時代」となる。『時評』は時代の大転機に創刊されたのである。創刊者の卓越した、敏感な時代感覚を感ずる。
 1959、60年の2年間、日米安保条約改定をめぐる戦後最大の政治闘争が展開された。この一大政治闘争は単に安保改定の正否を問い、岸信介政権の存亡を賭けた闘争という性格だけでなく、戦中戦後の積もり積もったフラストレーションをも燃焼させるという性格もあった。1960年の安保闘争の終了とともに、日本は新しい時代、すなわち「経済の時代」に突入した。世界中から奇蹟といわれた日本の高度成長が始まったのである。

安保改定をめぐる政治決戦――(1959~60年)
1959年2月、岸信介内閣の藤山愛一郎外相は、日米安保条約改定試案を発表した。3月、社会党・総評を中心に「安保改定阻止国民会議」が結成され、日米安保改定をめぐる一大政治闘争が始まった。
 この直後、岸内閣と自民党を震撼させる事件が起きた。3月30日、砂川事件に無罪判決が出された。伊達判決である。東京地裁の伊達秋雄裁判長は日米安保条約による米軍駐留を憲法違反とした。この判決が有効のままでは日米安保改定は不可能になる。4月3日検察当局は最高裁に跳躍上告した。非常手段をとったのだ。この年の12月16日、最高裁は砂川事件について「駐留米軍は違憲ではない」と原審破棄、差戻し判決を出した。
 これを機に岸内閣は安保改定への動きを加速化した。60年1月中旬、岸首相は訪米し、調印した。60年5月日米安保改定条約は衆院で与野党議員の大乱闘の中で可決され、1カ月後に自然成立した。この間、国会周辺を数十万人の反対デモ隊が埋めた。安保改定は成立したが岸信介内閣は倒れた。
 新たに登場した池田勇人内閣は経済成長政策を推進した。池田内閣は所得倍増計画を中心政策として打ち出し、「寛容と忍耐」の政治姿勢を強調した。これにより政治の空気は一変した。1960年夏の池田内閣登場とともに政治状況は変わった。60年夏に「政治の時代」が終わり、「経済の時代」に入った。日本は経済大国への道に向かって動き出した・・・


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