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森田実の永田町・霞が関クロニクル1959-2019②

スタグフレーション・消費税・新自由主義革命 揺れ続けた永田町・霞が関――田中退陣から竹下内閣まで(1974~88)

「故きを温めて新しきを知れば、もって師たるべし」(孔子)

田中首相退陣・政争激化(1974~80年)
 1973年の石油危機により、第2次大戦後の相対的安定状況は大きく揺らいだ。安価な石油によって支えられていた先進資本主義経済の成長は止まった。先進国の高度成長を支えてきた石油の価格は一瞬にして4倍に跳ね上がった。資本主義国の大量のマネーは石油産油国へ流れ込んだ。一時的とはいえ、世界経済の主導権は莫大なオイルマネーを掴んだ産油国に移った。世界経済に大変化が起きたのだった。
 先進国はスタグフレーションという異常な経済現象に襲われた。スタグフレーションとは物価上昇と失業率上昇が同時に起こる特殊な経済現象である。スタグフレーションに襲われた先進国の政府は危機に立たされた。多くの国で政変が起きた。日本も例外ではなかった。
 田中角栄内閣は1972年以降「今太閤人気」に支えられて好調だったが、スタグフレーションに足をすくわれ窮地に陥った。田中内閣は看板政策の日本列島改造政策を撤回し、経済財政政策を政敵の福田赳夫に委ねざるを得なくなった。田中人気は急激にしぼんだ。
 落ち目になった田中角栄を襲ったのはマスコミの金権政治批判だった。田中角栄は金権批判の高まりに耐えられなくなり、1974年末、総辞職した。代わって首相になったのは三木武夫だった。三木武夫首相はマスコミの支援を受けて田中金権政治を徹底的に追及し、田中排除を狙う米国政府と協力して、超法規的措置まで講じて田中前首相を逮捕した。この事件は日本の司法史に汚点を残した。ロッキード事件である。
 三木武夫ら反田中派が仕掛けた政争は、田中角栄の逆襲により深刻な党内対立を生んだ。田中退陣後の三木、福田、大平の3首相とも2年で交代を余儀なくされた。1970年代の政争は、1980年6月の大平首相の選挙戦中の急死によって終止符が打たれた。大平首相の突然の死は自民党に衆参同日選での大勝利をもたらした。この勝利により自民党は結党以来の最大の危機を乗り切った。
 自民党は大平総理総裁の後任に「和の政治」を提唱した鈴木善幸を選んだ。鈴木善幸内閣の登場によって政局は安定したかにみえたが、長期的安定には向かわなかった。鈴木政権の前に、レーガン政権が立ちはだかったのである。
 石油危機は日本の政治だけではなく、経済・財政にも大きな試練をもたらした。
 経済面では世界から注目された日本の高度成長は止まった。失業率の増大を止めるため財政支出を拡大したが、これによって財政は危機的状況に陥った。この状況を克服するため政府・大蔵省(現在の財務省)は1978年に一般消費税の導入を閣議決定した。大平首相は1979年秋に衆議院を解散し、一般消費税導入の公約を掲げ、衆院選に打って出たが、国民の理解は得られず、惨敗に終わり、自民党政権は大混乱に陥った。1979年秋から80年6月に至る自民党内の深刻な抗争は、一般消費税導入をめぐる混乱の結果だった。
 しかし消費税導入問題はこのままでは終わらなかった。消費税問題は1979年から今日まで、40年間続いている。大蔵省/財務省の消費税導入への執念が衰えることはない。今後も続くであろう。
 経済面でみると、日本資本主義は第2次大戦後の最大の危機に直面した。日本資本主義はこの危機を克服するために、第1に減量経営への経営改革、第2に労使協調の実現、第3に技術革新の推進を実行し、成功した。日本の大企業は高度成長を通じてたくましい力を身につけていたのだった。1970年代の経済危機を乗り切った日本資本主義は、1980年代前半期、ドイツと共に世界経済のけん引役を果たすことになった。この時期は日本資本主義の絶頂期だった。
 1980年代初期、日本は1973年の石油危機によって生まれた政治的経済的危機を乗り越え、日本独自の政治経済ビジョンを打ち出し、独自の経済国家への道を進むチャンスを得た。大平正芳首相はこれを示そうとしたが志なかばで病に倒れた。大平後継の鈴木首相は大平ビジョンを引き継がなかった。大平ビジョンが実行されていたら、その後の日本の衰退は避けられたかもしれないと私は思っている。まさに歴史とは、悔恨の記録なのである。

中曽根内閣―レーガン革命、日本を席捲(1981~88年)

 1980年6月の衆参同日選挙の自民党大勝と、強い党内基盤を持つ鈴木内閣の登場によって、政局は安定したかにみえたが、1981年に登場したレーガン政権は鈴木首相の和の政治を許さなかった。レーガン大統領の「日米関係は軍事同盟である」との声明に対し、鈴木首相は軍事同盟であることを否定した。レーガン政権は鈴木首相に不信を抱き、岸信介元首相を使って鈴木内閣を倒そうと企てた。岸信介は田中角栄と中曽根康弘を説得して、鈴木内閣打倒工作を展開し、成功した。
 1982年親米政権の中曽根内閣が成立した。中曽根政権はレーガン政権と岸信介が作った政権であった。鈴木首相の「和の政治」は「強いアメリカの復活」を目指したレーガン政権の対日政策に反するものだったのである。
 1973年の石油危機後の日本資本主義にはいくつかの道があった。社会民主主義、修正資本主義などが模索されたが、いずれも失敗した。勝利したのはイギリスのサッチャー革命と米国のレーガン革命の政治路線だった。サッチャー英首相とレーガン米大統領が目指したのは、競争至上主義の新古典派的経済政策であり、弱肉強食の経済だった。
 レーガン登場以降、米国政府は全世界を競争至上主義の新自由主義路線に巻き込んだ。中曽根首相はレーガン、サッチャーに同調し、日本を米英両国と一体化させようとした。中曽根首相のこの試みは、結果は成功しなかったが、日本の経済の力を弱めた。中曽根首相らの「日本のアングロサクソンとの一体化」の試みは、文化・習慣・風俗の違いを無視したものであり、成功するはずのない空論だった。しかし中曽根首相以後も、多くの政治家は日本の「アングロサクソン化」という空理空論に挑戦し続け、日本社会を混乱させ、弱体化させた。「日本のアングロサクソン化」という愚かな試みは、40年を経た今日もなお続いている。
 中曽根内閣は「戦後政治の総決算」の政治スローガンのもと憲法改正を目指したが、かけ声に終わった。中曽根内閣が具体的に取り組んだのは3公社5現業の民営化だった。特に国鉄と電電公社の分割民営化だった。中曽根首相が最も重点を置いたのは、国鉄分割民営化だった。これには社会党勢力の根絶という政治的狙いも含まれていた。国鉄労働組合は社会党の中心勢力だった。中曽根首相は国鉄という国有企業の分割民営化によって日本の半官半民的経済体質を純粋の民間経済に変えるとともに、野党第一党の社会党の基盤である労働組合を潰そうとした。そして成功した。
 中曽根首相は電電公社の民営化も達成したが、当初は電電公社の分割はできなかった。電電公社の分割民営化は2段階で進められた。国鉄・電電公社と並ぶ3公社の一つ、郵政省の分割民営化が行われたのは約20年後の小泉純一郎内閣の時代になってからだった。
 国鉄、電電公社、郵政省、専売公社など3公社5現業の民営化について、政府は「成功」と評価しているが、公平な評価とはいえない。サービス向上などプラス面だけでなく鉄道の安全性低下などのマイナス面にも目を向けるべきである。
 1980年代の政局は激しく動いた。1983年10月、ロッキード事件裁判で、東京地裁は田中角栄元首相に実刑判決を下した。国民の政治不信は高まり、この判決の直後に行われた衆院選で自民党は大敗北を喫し、中曽根政権は危機に立たされた。政府自民党は新自由クラブと統一会派を組むことによって、危機を切り抜けた。
 田中角栄元首相の政治的力が低下する状況の中で、竹下登は1985年2月、「創政会」を結成し、田中派から独立した。この直後、田中角栄は脳梗塞で倒れた。これにより田中角栄時代は終焉した。政界の第一人者となった中曽根首相は、衆参同日選を仕掛けた。中曽根首相側近の準備は非常に巧妙だった。中曽根首相の周囲には多くの知恵者がいた。その一人が佐藤誠三郎東京大学教授(政治学者)だった。彼は天才的頭脳の持ち主で、衆参同日選工作は緻密だった。
 中曽根内閣は1986年6月2日に第105臨時国会を召集し、開会冒頭に解散し、7月6日に衆参同日選を断行し大勝した。中曽根首相の力は巨大になり、総裁任期1年延長が実現しただけでなく、次の総裁の指名権まで手にした。中曽根首相はキングメーカーとなり、1987年10月、竹下登を指名した。11月6日、竹下内閣は発足した・・・

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