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森田実の永田町・霞が関クロニクル1959-2019③

激変・災害・混迷の時代(1989~2003)

「すべて世の中のことは進歩しないときは必ず退歩する」(ギボン)

世界的激変期(1989~94年)
 1989年は「昭和」が終わり、「平成」が始まった年である。「昭和」は1989年1月7日の昭和天皇崩御とともに終焉し、明仁親王(当時)が直ちに皇位を継いで新天皇となり、「平成」時代が始まった。
 1989年に昭和時代を代表した多くの著名人がこの世を去った。2月9日、手塚治虫、4月27日、松下幸之助、6月24日、美空ひばり、12月9日、開高健など昭和時代の後半期を代表した人々の逝去が続いた。
 政界、経済界でも激変が繰り返された。2月には江副浩正リクルート社前会長らが逮捕され、事件が拡大し、各界関係者の引責辞職が続出した。
 4月、3%の消費税が実施されたが、これが政界に大きな影響を及ぼすことになった。竹下内閣は国民の支持を失い、朝日新聞の調査で支持率は7%まで下落し、退陣に追い込まれた。次の宇野宗佑首相は、就任直後の参院選で大惨敗を喫し、わずか2カ月で退陣した。後継首相には海部俊樹が選ばれた。1年に3人もの首相が登場するという混迷状況だった。他方、労働界の統一が実現し、「連合」が発足した。
 世界情勢は激変した。1989年1月、ジョージ・ブッシュが第41代米国大統領に就任。2月、アフガニスタン駐留ソ連軍撤退完了。6月4日、中国・北京で天安門事件が起こり、中国共産党内の対立が激化し、趙紫陽総書記は解任された。中国は国際的孤立状態に陥った。
 89年11月9日、東独においてベルリンの壁が崩壊した。12月2日、マルタ島で米ソ首脳が会談し、冷戦後の新時代の到来を宣言した。
 1989年は、第二次世界大戦後の日本と世界の秩序が変わる節目の年となった。
 1990年から93年までの日本の政治は小康を保ったが、世界は動いた。特にソ連東欧において共産主義体制の崩壊過程が進行した。
 1990年3月、ソ連共産党拡大中央委員会総会でミハイル・ゴルバチョフ書記長は党の指導性放棄などを提案した。ついでソ連人民代議員大会は憲法改正案を採択し、ゴルバチョフを初代大統領に選出した。
 10月、西独が東独を編入する形でドイツ統一を達成した。
 1991年8月、ソ連でゲンナジー・ヤナーエフらによるクーデターが起きたが失敗に終わった。この直後、ゴルバチョフは共産党の解散を勧告し、党書記長を辞任した。12月、ソ連邦の11共和国は、独立国家共同体創設についての議定書に調印した(アルマアタ宣言)。ゴルバチョフ大統領は辞任を表明。ソ連は消滅した。1989年から91年にかけてソ連共産党体制が崩壊し、世界的構造変化が起きたのである。
 1989年秋、私はソ連と東欧諸国を取材旅行し、ソ連体制が崩れゆく状況をつぶさに観察した。この時期、世界は大きく変動した。また、天安門事件直後の中国・北京を訪問し、政権、党、軍の関係者に会い、事件と日中関係について議論した。歴史の激動を現場に立って取材することができた。1989年から91年にかけての大変化は世界史上の歴史的出来事だった。

小選挙区をめぐる、混乱した国内政治(1993~95年)
 1992年末、自民党の最大派閥の竹下派は小渕派と羽田派に分裂した。実質リーダーは小渕派が竹下登、羽田派が小沢一郎だった。1993年6月、野党が提出した宮沢内閣不信任案に羽田派が同調し、宮沢内閣不信任案は可決された。宮沢内閣は憲法68条にもとづき衆院を解散した。羽田派は自民党を離党して「新生党」を結成し、野党に転じた。
 7月18日、第40回衆議院議員選挙が行われた。自民党は第一党となったが、過半数には届かなかった。野党は総結集して細川護熙を総理に選んだ。この結果、自民党は野党に転落した。
 細川首相の人気は高かった。しかし1994年2月3日未明の記者会見で消費税率を7%にして衣替えした「国民福祉税」導入を提案したことに強い反発が起き、細川内閣の力は急落し、退陣を余儀なくされた。細川内閣はわずか9カ月の短命内閣に終わったが選挙制度改革(小選挙区制導入)だけは実現した。政局混乱の原因は消費税と小選挙区制導入をめぐる対立だった。
 1994年6月、細川内閣を継いだ羽田内閣に対し、自民党と社会党から不信任案が提出された。羽田孜内閣が衆議院を解散して対抗すれば小選挙区制法が無効になる可能性はあったが、羽田総理は小選挙区制法を生かすために総辞職を選択した。
 細川、羽田、小沢らは小選挙区制を導入すれば日本の政治は良くなると考えていたようだったが、結果は裏目と出た。小選挙区制は日本の政治を劣化させた。現在の国会議員の質の低下は痛ましいほどである。
 羽田内閣総辞職後の首相指名選挙は〝ねじれ〟となった。自民党と社会党とさきがけは社会党委員長の村山富市を推したが、新生党、日本新党は海部元首相を推した。結果は、村山が勝った。
 村山自社さ連立政権が成立した。村山首相は従来の社会党の基本方針を見直し、自衛隊は合憲と認め、日米安保条約を堅持すると表明した。
 野党になった新生党と公明党等は「新進党」を結党した。公明党は、新生党参加の「公明新党」と残留の「公明」に分裂した。
 村山首相は1996年1月、「人心一新」を理由に退陣した。
 1996年10月、第41回総選挙で自社さ連立政権と新進党が、小選挙区制で対決したが、自民・社会・さきがけ連立側が勝利した。内実は、自民党だけが勝ち、社会党とさきがけは惨敗した。橋本自民党単独内閣が発足し、自社さ体制は終焉した。
 村山内閣時代に大災害と大犯罪事件が起きた。大災害とは1995年1月17日に起きた阪神淡路大震災である。死者6434人、家屋全壊11万7489棟に及ぶ大災害であった。
 大犯罪とは3月20日、東京の営団地下鉄線で起きた猛毒サリン事件である。死者12人、重軽傷者5500人超。若い知識人集団によるサリンを使ったおそるべき組織犯罪だった。
 その後災害は急速に増加した。21世紀の到来とともに激増する傾向である・・・

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