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森田実の永田町・霞が関クロニクル1959-2019④

第2次大戦後の平和協調体制崩壊の危機
――新時代への模索(2004~2019)

「『時』の歩みは三重である。未来はためらいつつ近づき、現在は矢のように速く飛び去り、過去は永久に静かに立っている」(シラー)

小泉・安倍・福田・麻生自民4代の政権(2001~09年)


 小泉純一郎内閣が森喜朗内閣総辞職後に成立したのは2001年4月26日だった。小泉首相は2002年1月の施政方針演説で構造改革断行を強調した。小泉政権は米国流新自由主義革命を実行した。
 小泉首相は2002年9月17日に訪朝し、金正日総書記と首脳会談を行い、「日朝平壌宣言」に署名した。金正日は拉致問題について謝罪した。北朝鮮は拉致された13人中8人は死亡したと日本側に伝えた。さらに2004年5月、再度日朝首脳会談が行われ、拉致被害者家族が帰国した。しかし、拉致問題は今日まで未解決のままである。
 小泉内閣はイラク戦争を始めた米ブッシュ政権に協力し、自衛隊のインド洋、イラクへの派遣に踏み切った。小泉政権は日本の防衛政策を大きく転換した。
 2005年、小泉政権は、郵政民営化法案の参議院での否決を受けて、衆議院を解散した。衆院選は9月11日に行われ、自民党は圧勝した。小泉首相が参議院での法案否決を不満として衆議院を解散し、衆院選の結果によって参議院の決定を覆したことは、憲法第41条違反ではないかとの疑問もあり、議会政治に禍根を残した。
 2006年9月、小泉内閣総辞職のあと、安倍晋三内閣(第1次)が発足した。安倍内閣は安倍首相の長年の念願だった教育基本法改正に取り組み、実現した。2007年1月、安倍首相は施政方針演説で「戦後レジームの見直し」を強調したが、閣僚の辞任が相次ぎ、07年7月の第21回参院選で惨敗を喫し、9月に退陣した。第1次安倍内閣は1年の短命に終わった。
 2007年9月26日、福田康夫内閣が誕生した。福田内閣は日中関係改善等で努力し成果をあげたが、野党提出の福田首相問責決議案が参院本会議で可決されるなど、政局運営に行き詰まり、08年9月1日退陣を表明した。代わって9月24日、麻生太郎内閣が誕生した。
 2008年9月15日、米証券会社リーマン・ブラザーズが破綻した。米国での過去最大の倒産だった。リーマン・ショックは全世界を襲った。日本経済も深刻な影響を蒙った。
 09年夏、麻生太郎内閣は混乱を続けた末に衆院を解散した。09年8月30日の衆院選で自民党は大敗北を喫し、退陣した。衆院選は民主党が圧勝し、政権交代が実現した。


民主党、鳩山・菅・野田民主党3内閣の混乱と挫折(2009~12年)


 2009年8月30日に行われた第45回総選挙で民主党は308議席を獲得し、119議席しか取ることができなかった自民党を圧倒し、勝利した。自民党は1955年の結党以来、初めて衆議院で第一党の地位を失った。
 1993年に自民党が政権を失った時は、自民党は半数に近い議席数を持つ第一党だった。非自民勢力の総計の議席数が自民党を上回った結果、細川非自民政権が誕生したのだった。これに対し2009年は自民党の議席数は民主党に大差をつけられた。完敗だった。
 自民党惨敗の原因は、第1に日本の経済状況の悪化にあった。自民党政権はリーマン・ショックによる深刻な景気後退によって潰されたのだった。第2は、2007年の第1次安倍政権下における参院選での敗北により、衆議院と参議院にねじれ現象が起き、自民党政権は円滑な政権運営を行う力を失っていたことにあった。第3は麻生太郎首相の度重なる失言にあった。麻生首相の個人的信用の低下が禍いした。
 鳩山由紀夫内閣は、2009年9月16日に、民主・社民・国民の連立内閣として発足した。鳩山内閣は、脱官僚・政治家主導の政治姿勢を強く打ち出した。ついで「コンクリートから人へ」のスローガンのもと、八ッ場ダムなどの建設中止を表明し実行した。
 さらに鳩山内閣は国家公務員の「天下り」をなくす方針を決定した。マスコミは鳩山内閣の反官僚主義を支持したが、官僚組織は大混乱に陥った。鳩山内閣が高い人気がありながら早期退陣を余儀なくされた原因の一つが、急ぎ過ぎの官僚制度改革に対する官僚の反発があったことは否定できない。
 鳩山政権の早期崩壊の最大の原因は、指導者間の不和・対立にあった。特に鳩山首相と民主党政権の最高実力者で民主党幹事長だった小沢一郎との激しい主導権争いが禍いとなった。
 民主党は長年の努力が実り、ようやく政権を取り、指導部が団結すべき時に、指導権争いを起こし、自滅した。鳩山首相と小沢一郎は、あたかも刺し違えたかのように共倒れした。鳩山首相の沖縄問題をめぐる発言のブレも自滅の原因となった。鳩山首相は6月2日に退陣を表明した。わずか九カ月の短命政権だった。
 鳩山由紀夫の次に政権の座についた菅直人首相も、小沢一郎と対立し、小沢一郎とそのグループを排除したために政権党内が大混乱に陥り、自滅した。菅直人首相は、自分の手で政権政党自体を分裂させるという驚くべき愚行を行った。さらに菅直人首相は、2010年7月の第22回参議院議員選挙において、突如として選挙公約にもなかった増税の主張を打ち出し、国民の支持を失い、敗北した。驚くべき狂乱であり、自殺的行為であった。
 菅直人政権時代に激しくなった尖閣諸島周辺での中国漁船と海上保安庁巡視船の衝突事件についても、菅政権の対応は混乱し、政権の信頼は低下した。
 2011年3月11日、東日本大震災が発生し、地震と津波で大災害が起きた。さらに東京電力福島第一原発で事故が発生した。政府は「原子力緊急事態宣言」を行ったが、菅内閣の行政は大混乱に陥った。特に菅首相の冷静さを欠いたパフォーマンスが国民の不安を煽る結果になった。菅内閣は政権担当能力を失い、大混乱の中で退陣した。代わって野田佳彦内閣が登場した。が、民主党政権の混乱を収めることはできなかった。逆に拡大した。
 野田佳彦内閣は、民主党内をまとめることができないまま、消費増税に踏み切った。2012年6月26日、「消費税増税」は衆議院を通過したが、民主党内の混乱はさらに拡大した。
 その上、中国政府の強い反対を無視して、「尖閣諸島三島の国有化」を閣議決定した。
 野田佳彦内閣は、「平和第一」の従来の日本政府の平和主義を放棄し、相手国の立場を無視して一方的に尖閣国有化を決定した。この結果、日本と中国との平和友好関係は崩壊寸前の状況になった。このため、尖閣諸島周辺での日本の自衛隊と中国人民軍の武力衝突の危険性が発生した。野田内閣は1972年の日中国交樹立の「共同声明」と1978年の「日中平和友好条約」に反する危険な行為を行った。日中間の緊張は激化した。
 野田首相は、民主党の混乱を収拾できないまま、2012年11月16日衆議院を解散した。これは「野田民主党内閣の自殺的解散」と言われた。民主党は大惨敗を喫した。
 2012年12月16日の第46回総選挙の結果は、自民294、民主57、維新54、公明31となり、自民・公明の連立内閣が復活した。12年12月26日、安倍晋三自公連立内閣が成立した。大敗北した民主党は事実上、消滅した。2009年に民主党に期待した支持者も去った。多くの民主党員が民主党に失望し、政党を去った。政権交代可能な二大政党体制は崩壊した・・・

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