お問い合わせはこちら

菜々子の一刀両断ってわけにはいかないか……【第187夜】

平成最後の選挙

私の名前は松下菜々子。深川門前仲町で久寿乃葉という小料理屋を営む。未婚、子なし。恋人募集中。世間の皆さんあるいはお店の常連のお客様同様、将来に不安を感じている。砂浜の真砂が尽きないように、私の老後不安にも底がない。同年代の客も同様と見えて、カウンター席でも座敷席でも、その種の会話が多いように見受ける。客の話に合わせるのは接待の基本。菜々子も、新聞、テレビ、図書館で、その種の勉強に怠りはない。

旧客、遠方より来たる


「今回、ボクは地域の選挙にボランティア参加しましてね」
 久しぶりに表れたYさんは日焼けで真っ黒。サラリーマン生活からきっぱり足を洗うと宣言したのが2年前のこの時期だったと記憶する。暇になるのはいいとして、まだ元気なのだし、いったい何をして過ごすのかと聞いた。
「そんなことはおいおい考えるよ。AかBか選択で迷うようなことがあればママに相談に来るから」と言い残したきり2年間も久寿乃葉に現れない。便りがないのは無事ということ。菜々子の記憶からも薄れていたが、話を合わせるために記憶の糸を引っ張り出す。
「たしか長野県に山荘を持っていたわよね。焼き物窯を作ろうかと言っていたでしょう。それと自宅を改造して書斎を作り、思索生活に入るのも悪くないとも言っていたわよね」
 銀行で役員手前まで勤め上げた後、子会社の重役を歴任。親からの遺産もあってサラリーマンとしては間違いなく成功者。こういう上客が引退して、久寿乃葉から足が遠のくのは痛い。近くに住んでいるのなら「奥さんを連れてお店に来てよ」と声掛けできるが、Yさんの住まいは東京都でも西の方。久寿乃葉で飲んだ後、自腹のタクシーで帰るのは厳しいだろう。かといって高齢者のこと、電車で帰らせて乗換駅で転倒でもしたら大変だ。
「ご心配なく。老化で頭の方はネジが緩んでいますが、体の方はこのとおり」と、立ち上がって腕まくりし、力こぶを作って見せた。菜々子は一瞬、Yさんがシャツの胸元をはだけて、ボディビルで鍛えた胸筋を見せるかと期待したのだったが。
「なんでまた選挙に関わることになったの?」と話題を戻す。


市庁舎の建て替え問題


 Yさんが住む都下の市―東京都の中心部である東半分は区制が敷かれているが、丘陵や山岳地を含む西半分は市町村制になっている―では、市役所建て替え経費が市長選挙の争点になった。それにYさんの関心がひきつけられ、のめりこんだ次第らしい。
 現職の女性市長に男性元副市長が挑む構図で、新聞でも報じられていたから、菜々子にも予備知識はあった。実は市長は4年前に、副市長を後継指名して禅譲することになっていた。ところが立候補寸前に当の副市長が病気になって立候補を断念。市長が引退を取り消し続投した。それから4年。元副市長は病気が癒えたから「約束どおり市長ポストを寄越せ」と迫るが、引退を翻意して長期政権への意欲が深まった現職は、「今さらなによ。チャンスを病気で棒に振ったあなたが悪いのよ」と一蹴。ガチンコでぶつかり合うことになった。部外者の菜々子からすればインナーサークル内でのポスト争い。市長ポストにはおいしい利権があるらしいという穿った見方になる。
 当事者同士もそう考えたのだろうか。もっともな選挙争点が求められ、市庁舎の建て替え経費問題が浮上した。市庁舎新築計画は以前からあったらしい。現職市長が進めようとするのに対し、対立候補は200億円もの市財政を投入するのはもったいなからPFIその他の手法を検討して安上がりで済ませるべきだと主張した。Yさんは節約説に賛同し、勝手に応援することにしたという。そしてボランティア的に活動した。
「選挙活動はけっこうな運動量になる。体を動かし、声を枯らし、健康的にお腹がすく。有権者は単に投票所に行くだけでなく、支援する候補者のために走り回ることを一般化すべきだと思うね。例えば選挙活動にボランティア参加し、立候補者の事務所から活動証明書をもらった人は市民税の1割を税額控除してもらえるとか…」
 これは夢物語として聞いておこう。ともあれYさんが応援した候補が当選した。高揚感、達成感に満ちているのは当然だろう。問題はこの先。市庁舎建設費を安上がりにすることで市民負担を軽減するとした公約が実行されることを祈るばかりである。


本気で経費節減させるには


「ママは部外者だから評論家的だけど、200億円は該当市民には大金なのです」とYさんに叱られた。でもね。言うまでもないことだが、市庁舎の豪華さと市民への行政事務とは直接関係ない。そのこともあるのか、市庁舎建設費は地方交付税の対象経費に入らないし、国庫補助項目もない。すべて市民の直接負担なのだ。当該市の人口は20万人弱。計画どおりに新庁舎を建てれば、市民一人10万円強の負担になる。4人家族では40万円。老夫婦世帯でも20万円。軽の中古車を買える金額だ。M市の全世帯が自家用車の買い替えを1回先送りするから、市庁舎を新築してくれとでも陳情したのだろうか。
 もちろん、そんな事実はないはずだ。Yさんが応援して当選させた新市長は、市庁舎建設費に必要とする200億円をどのように税金外で捻出するつもりなのか。そもそも新市長は副市長だった当時から、市庁舎建て替えに疑問を抱いていたのだろうか。単に選挙に勝つ方便に過ぎず、経費節減に本気で取り組む気がなかったとすれば、Yさんはとんだピエロである。選挙で敗れた現職の敗戦の弁が、「もともと副市長として自分を支えてくれた人だから、市政運営に変更はない」だったとネット記事で報道されている。そうなるとYさんの運動はこれからが本番ということになる。
「そもそもなぜ市庁舎を建て替えるの? 今の建物が50年経過して古くなり、耐震上も完ぺきではないというのが理由らしいけれど、それなら個人の住宅はどうなの。神戸の大地震で市役所はグシャッとなったけど人的被害はなかった。圧死者は個人の住宅だったはずよ。この市でも各世帯で一人10万円かければかなりの地震対策ができるはず。タンスの倒壊防止金具なんて家じゅうやっても1万円かかるかどうか。非常用持ち出し袋や屋外就寝用テントなども購入できる。市庁舎の建て替え資金と引き換えで可能になるのよ」
 少々強弁だったかもしれない。しかしYさんに後で後悔させないためには、これくらい言っておいたほうがよいと判断したのだ。


市庁舎は古くてボロボロでよい


「ママは市庁舎の建て替えは必要ないという意見だが、それでもいずれは建築物の寿命が来て建て替えが必要になるぜ。永久先送りはできない」とYさん。
 なるほどしっかり洗脳されているようだ。
「IT技術が進化しているから、住民票をもらうために市役所まで出かけることはなくなるはず。許認可を大胆に規制緩和し、行政事務の民営化と抱き合わせれば、市役所のお役人は半減できるわ。そうでなくても人口減なのだから、公務員数を維持するのは基本的におかしい。長期的には市庁舎のサイズダウンが必要なのよ」
「将来的には市庁舎の建物規模が小さくなるということかい」とYさん。
 菜々子はそう考える。それを前提にすれば、敷地の半分を売却するとか、豊島区がやったように区役所の上層階をマンションとして分譲するとか、方法はいくらでも出てくるはず。さらに思い切って災害時に避難所になる都市公園の一角にプレハブ仕様で作ることだって考えられる。柔構造であれば、揺れは大きくても倒壊する恐れは小さい。市庁舎は災害時の対策本部になるのだから、倒壊しないこと、機能不全にならないことが、最重要条件なのだ。揺れでロッカーが倒れるなどは、人力で即座に応急対応できるのだ。
「市の隆盛を示すのは中心市街地の豪華さであり、民間建造物の豪華さということかい。宮殿の補修を後回しにし、民家の竈からの炊煙の復活を優先した仁徳天皇の故事を思い出せと言いたいのだね」。Yさんはさすがに物知り。主領様の勢威を示すことが最優先という北朝鮮と同じことを、自由主義国の日本の為政者がしているのでは笑い話にもならない。
 わが江東区でも区庁舎の建て替えが提案されるかもしれない。江東区はほとんどが海抜ゼロメートル。洪水、津波で堤防が切れれば、今の区役所の下層階は恒久的に海に沈む。災害対策本部が海中に没するおそれが濃厚なのだ。であれば建て替えでは高層ビル化し、区役所を上層階に集約し、下層階を民間企業に賃貸することで収益源にすることだろう。さらに建築費に関しても区民の税金を使うべきではない。功成り名を遂げて、名誉が欲しい区民は少なくない。そうした人からの寄付を募る。逆に言えば、必要額の寄付金が集まるまで建て替えを具体化しない。そのくらいの決意が必要だと思う。


問題の基礎に選挙方法


 どうして民意が選挙で反映されないのか。
「出たい人より出したい人を。これが民主主義の代表選抜の基本だが、今の選挙方法ではそれが実現しない」。Yさんが腕組みする。顔写真だけの選挙ポスターで選別せよと言うが、どこに公約が書いてある? 現職の場合、実績をどこで確認できる? さらにあの選挙カー。大音声の拡声器は許せるとしても、公約の端くれも聞くことができない。
「候補者の○○です。一生懸命区民のために働きます。○○です。皆さんの期待に応えます。○○です。議席を与えてください。○○です。もう一歩のところまで来ています。○○です。最後のお願いです。○○です。…」
 これだけ名前を連呼されれば、いやでも耳の奥にこびりつく。候補者はそれを狙っているのだろう。せっかく覚えた名前だから、投票用紙に書いてあげよう。情にほだされやすい有権者には効果的とする心理学の実験成果があるのかもしれないが。
 ○○に続いて、▲▲の選挙カーがやってくる。「候補者の▲▲です。よろしくお願いします。▲▲です。…」
 有権者を馬鹿にしたこんな方法でいいわけがない。参政権を文字どおり運用するには、投票者には参加費用を求めることだ。権利の行使がタダでなければならない道理はない。例えば1万円出した人が、演説会に参加でき、投票できることにする。演説に内容がなければやじり倒されることになろう。一方、議員など公職者への報酬は時間に応じた日当(1日2万円程度)限りとする。公職を生計費稼ぎの手段にさせないためだ。
「そこまで徹底すれば、出たい人より出したい人を」が実現するかもと、Yさんが頷いた。その目は輝いている。Yさんの老後の生きがい活動は定まったね。(月刊『時評』2019年6月号掲載)

寺内香澄(てらうち・かすみ)(有)総合社会政策研究所。ショートストーリー作家としても活躍。単行本として『さわやか福祉問答』(ぎょうせい)。
寺内香澄(てらうち・かすみ)(有)総合社会政策研究所。ショートストーリー作家としても活躍。単行本として『さわやか福祉問答』(ぎょうせい)。