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菜々子の一刀両断ってわけにはいかないか……【第260夜】

医院も患者も喜ぶ医療費削減策

写真ACより
写真ACより

私の名前は松下菜々子。深川門前仲町で久寿乃葉という小料理屋を営む。未婚、子なし。恋人募集中。
世間の皆さんあるいはお店の常連のお客様同様、将来に不安を感じている。砂浜の真砂が尽きないように、私の老後不安にも底がない。同年代の客も同様と見えて、カウンター席でも座敷席でも、その種の会話が多いように見受ける。客の話に合わせるのは接待の基本。菜々子も、新聞、テレビ、図書館で、その種の勉強に怠りはない。

病気自慢

 気さくな会話を楽しむには話題の選択が重要。「政治や宗教の話はよしなさい」。「気候や映画など喧嘩にならない題材から入るのが無難です」。中学の英語の先生の言葉。英語を使いこなす方はモノになっていないが、楽しく世間話をする秘訣は覚えている。

 菜々子とともに久寿乃葉の常連さんの年齢構成も上がり、現役引退世代では孫自慢が多くなる。だが中には独身を貫いて、家族は100歳間近の実母だけという人もいる。そういう人には子ども、甥、姪、孫の話題は避けた方がよい。そうすると自然と多くなるのが健康関連の話。

 カウンターで隣り合わせになり、「10年ぶりですかねえ」と言い合っていたOさんとTさん。接点を思い出せないようでお互いに話題を模索している感じ。

「勤めを辞めて外出しなくなったら体にガタが来ましてねえ」とTさんが嘆くと、「歯医者に抜くように言われましてね。総入れ歯になったら一緒に外出しないと女房に脅されてるんですよ」とOさん。

 政治家は病気を抱えていることは極秘事項だそうだが、一般庶民階層の年寄りは開けっぴろげ。体のこの部位の調子が悪いとか、物忘れが始まって認知症予備軍になったなど、病気自慢が始まる。救いは深刻になる人がいないこと。「病気の進行が怖いからお酒を切り上げて帰る」ということになったら、菜々子の商売は干上がる。若い人がサッカーや野球で盛り上がるように、高齢者は病気で盛り上がっているのだと考えよう。

眼科医で3分診療

 一般論では場が持たないから各自の体験談に進んでいく。Tさんが眼科医に行った際の報告を始めた。この人、視力がとてもよく、メガネをかけたことがない。しかも老眼症状も出ないという稀有な体質。ところが突然に瞼が赤くはれ、むず痒くなった。慌てて駅前の眼科医にいくことにした。「白内障とか緑内障とかおそろしい病気だったらどうしよう」。

「それにしても東京はどこにでも診療所があって便利ですなあ」と前置きから始めた。ほぼすべての駅前で開業医が軒を連ねている。今さらながらその多さに驚いたという。「無医村が多々あるというのに。同じ健康保険料を払っていて田舎の人は怒らないのかね」

 この調子では話が進まないから要点を絞ろう。Tさんは診察の前に視力検査を求められた。視力には自信があるし、つい先日も運転免許証更新でテストを受けたばかり。時間と費用の無駄だと思うから省略してもらえないかと申し出たという。

「ほう、そうでしたか」とOさんは感心している。医院で患者が診療方針に注文をつけるのはこの国では珍しい。国民皆保険制度で診察診療手順は定まっていると誤解されている。

「いやあ、そんな立派なことではなくて、相手が医師ではなくて看護師だったから言いやすかっただけですよ。ただ若い人が保険料を払ってくれているのだから、少しでも診察経費を減らすのは高齢者の義務かなと…」

 しかしOさんの提案は、先生の診察の前に視力検査するのが手順だとすげなく却下。そして「視力関連の異常まったくなし」の声を背に診察室に入った。診察室では医師に瞼を裏返された。そして「ウイルス性か、細菌性の結膜炎ですな。処方箋を出すから前の薬局に行きなさい」。原因がウイルスか細菌かで予後が違うのだろうか。疑問に思ったが、医師に呼び込まれた次の患者が入室。自然と追い出される形になった。「その間3分もなかったな」

「それで治ったの?」の菜々子の問いには、「薬局で目薬をもらったが、帰りに図書館などに寄っているうちになくしてしまった。でも1週間後には腫れも痒みもなくなった」。あきれた。それこそ医療費の無駄遣いではないか。

整形外科で3秒診療

 今度は自分の番とOさん。2週間前に家で床を掃除した際、乾ききっていない上を歩いて滑って転び、左半身をしたたか打ちつけたという。彼は左利きなのに右手に盃を持っている違和感が氷解した。右手を添えなければ左手を動かせない。無理に動かせば激痛と言う。1週間様子を見たが軽快しないので、最寄り駅前にある整形外科医に行った。

「受付で転んだと言ったのがよくなかったかも」とOさん。連れて行かれたのがレントゲン室。患部は腫れてもいないし、骨折やヒビはないはず。彼の自己診断では転倒でスジを痛めたのであろうから、先生に聞きたいのはそれへの対処法。例えば温めるのか、それとも冷やすのかなど。でも、担当者は「先生にレントゲンフィルムを見せることになっている」と撮影を強要する。そして映像処理が終わるまでしばし待てと告げられた。

「お昼時間に食い込むことになった、職員に時間外手当は払われるのだろうか」。労働委員会の公益委員をしたことがあるというOさん。労働法規を復習しつつ20分ほど待った。

「骨折もヒビもなし。お疲れさまでした」。ようやく呼ばれた診察室では、先生の前の椅子に座る前に診断結果を告げられ、退室を促された。その間約2秒。「先生、これで終わりですか」。「終わりです」。「何か自分でできることはありますか」。「ありません。時間が経てばやがて治ります」。これを含めても在室時間はようやく10秒か。

医療費を減らせないのか

「二人とも大病でなくてよかったじゃないの」と菜々子。でもねえ、結果論だけど、二人とも医者にかかるまでのことはなかった事例だ。日本のお医者さんは総じて優しい。お国柄によっては「大したこともないのに医者にかかるな」と怒鳴られる事例かもしれない。医者にかかるときはよく考えてからにしようね。別の話題に転じようとした菜々子だが、「でもさあ」とTさんがこだわった。

 眼科診療所での領収証が手元にあると持ち出したからみんなで覗き込む。計上されているのは3項目。「初・再診料」288点。「投薬」68点。「検査」577点で総計932点とある。

 知られているように健康保険の治療費は点数で示される。1点10円だから、初診料金2880円、処方箋発行料680円、そして視力検査料金5770円で、合計9320円である。

「うーん」。菜々子ならずとも唸るだろう。先生の3分診療が2880円は、専門家の技量評価額だからまあ高いとは言えまい。処方箋発行料金680円は、先生が「この薬がベストのはず」と選ぶ代価だから妥当だろう。薬剤費や調剤費用は別途薬局に支払うことになる。問題は視力検査費用の5770円。文字盤のマルの上下左右のどちらが切れているかを言い当てるテストで、事前に目につける点液と検査看護師の5分間の人件費をどう足し合わせても5千円は高いだろう。

「自分の場合は」とOさんも財布から整形外科医の領収証を取り出した。初診料2380円、医療情報システム整備関連費40円、処方箋発行料730円、そしてレントゲン撮影費が手の甲2870円(2回分)と左肩2100円の小計4970円。その総計が9120円。

「当人が骨折などはないと言っているのだから、先生の診察を先にすればレントゲン撮影は要らないことになっていたはずだ」とOさん。昔は職場や学校、自治体での健康診断でも胸部のレントゲン撮影は当然だったが、近年は放射線への警戒感から拒絶する動きがある。1回1回は微量でも頻回繰り返せば無視できなくなる。また、このレントゲンには効果の点からの疑問もある。かつて猛威を振るった肺結核発見にはレントゲンが有力だったが、結核は感染症の中では絶滅危惧種に近い。もちろんそれは政府によるツベルクリン、BCG、サナトリウムや最新抗生物質の保険適用など撲滅大作戦の成果であるわけだ。そしてそれが成功しての今日がある。

「いまや結核患者がいないのだからレントゲン検査による肺結核の発見率はゼロと言ってよい。それなのに検査を続けるのは必要のない放射線健康被害の可能性を高めるだけの愚策だとママは言いたいのだろう」とTさん。相変わらず発言がきつい。

診療報酬は不断の見直し必要

 眼科医の視力検査、整形外科医のレントゲン検査。これらはどこまで必要なのか。わずかな事例を基に議論を立てるのはフェアではないかもしれないが、とOさん。

「整形外科でレントゲンを撮らなかったら約5千円が不要になり、診療所の売上げは9120円から4150円に半減する。これはさすがに困るだろうから、初診料3380円を倍増の6760円にする。それでも健康保険としては1590円、比率にして2割の削減ができる」

「無駄なレントゲンを撮らない」の条件付きだが、医院側も経費が減るのだから歓迎のはず。こういうのをウィン-ウィンと言うのではないか。菜々子も同意したい。

「眼科医の視力検査も同じだろう」。Kさんが暗算で数字をはじく。「視力検査5770円の廃止で売上げ9320円が3550円に下がる。しかし初診料2880円を2倍にすれば減額分の半分を取り返せる。減収分よりコスト減が大きければ利益が拡大する。これが経営の基本」

 今どき視力検査は家でもできるし、素材は百均店で買える。家での検査結果持参での受診を一般化すれば、保険制度の経費節減は少ないはずだとTさん。そこまで簡単ではないと思うけれど、医療費を減らす工夫を健康保険関係者はもっとまじめに考えるべきだろう。

(月刊『時評』2025年7月号掲載)

寺内香澄(てらうち・かすみ)(有)総合社会政策研究所。ショートストーリー作家としても活躍。単行本として『さわやか福祉問答』(ぎょうせい)。
寺内香澄(てらうち・かすみ)(有)総合社会政策研究所。ショートストーリー作家としても活躍。単行本として『さわやか福祉問答』(ぎょうせい)。