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菜々子の一刀両断ってわけにはいかないか……【第196夜】

自由と平和は闘い守るもの

写真ACより
写真ACより

 私の名前は松下菜々子。深川門前仲町で久寿乃葉という小料理屋を営む。未婚、子なし。恋人募集中。
 世間の皆さんあるいはお店の常連のお客様同様、将来に不安を感じている。砂浜の真砂が尽きないように、私の老後不安にも底がない。同年代の客も同様と見えて、カウンター席でも座敷席でも、その種の会話が多いように見受ける。客の話に合わせるのは接待の基本。菜々子も、新聞、テレビ、図書館で、その種の勉強に怠りはない。

民主主義は普遍的価値
 香港の民主化闘争は息長く続いており、市民運動家たちは日本政府の精神的支援を求めている。しかるに日本側は北京政府に遠慮して発言を控えている。これでは民主主義国家の名が泣かないか。今日のY先生は来店時からハイテンション。日本は世界経済における大きさにふさわしい責務を果たさなければならないと前置きして、紙片を読み上げた。ちなみにY先生は大学では法学で講じる教授である。習近平氏の国賓来日反対活動に参加署名しているとのことだ。

――民主主義は人類普遍の原理であり、これによってのみ専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去できるのだ。民主主義が世界中に行き渡れば世界人類は恐怖と欠乏から免れ、平和共存できるのだから、民主主義を採用しない国を認めることはできない。われわれは国家の名誉にかけ、全力をあげてこの理想と目的を達成することを誓う-

「これはある国の憲法です。どこだと思いますか」

 飲み屋の女将に答えさせるレベルを超えているよ。だがYさんの文脈に即して正解を予測すれば…。「ひょっとしてわが日本国憲法かしら」。

「ピンポーン」。Y先生は手を叩き、菜々子のグラスにビールを注いでくれた。

「現行の日本国憲法前文に書かれています。軍備を放棄し、周辺諸国のお情けによって生きていくのだといったヘンテコリンな〝平和主義〟論が幅を利かせていますが、まったくの間違い解釈。世界中が真の民主主義国になれば、個々の人間は基本的に平和主義ですから侵略戦争は起き得ない。そうなれば世界的に軍備は不要です。世界不戦条約を現実化させる決意表明であり、そのために日本国は行動するという決起文なのです」

「ということは?」と菜々子。

「もちろん香港の市民活動に対する支援表明と中国政府に対する経済制裁です。現に欧米諸国はその方向に動いていますが、日本は近隣なのですから主導的でなければなりません」

「でも中国共産党独裁政権は納得しないわよ。東京に核ミサイルをぶち込むぞと脅してくるかもしれない。そもそも〝日本は民主主義を世界に広める”というY先生流の憲法解釈は少数派でしょう」

「日本国憲法が民主主義を前提にしていることに異論はないはずです。国政の権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民が享受すると書いてあるのですから。ところが隣国が個々の自国民の意向を歯牙にもかけない独裁権威的政権であればどうなるか。ヒトラーによるチェコ等占領からポーランド侵攻、それに呼応してのスターリンによるポーランド分割からバルト三国併呑に対して西ヨーロッパの民主主義国は当初無力でした。こうした悲劇をなくすには世界中を民主主義国にする。国際連合による集団的安全保障はその一手段です」とY先生。

「この理念を念頭に憲法典の字句を国語解釈していけば、私と同じ解釈になるはずです」と意気軒高。「正しいと思うことは実施しなければなりません。中国が武力を行使しそうだから黙っていようというのであれば、『日本は国家の名誉をかけて民主主義を守り、広める』という現在の憲法条文に偽りありということで、逆の意味での憲法改正が必要になるはずです!」

民主主義は世界的に容認されているのか
 日本では民主主義は絶対に正しいとされる。義務教育レベルでも「多数で決めたのだから従いなさい」と指導される。生徒会活動などはその基礎訓練の一環とみられる。

 だが国民が芯の底から、それを信じているのか。若い世代では最も望ましい政治形態として民主主義を挙げる率が半数を割っているとの調査報道を思い出した。古代ギリシャ都市国家での〝衆愚政治〟の事例もある。民主主義が最善であるというのは思い込みに過ぎないのではないか。

「女将の疑問はもっともです。かのチャーチル曰く、民主主義は最悪の政治形態だ。ただし、これまでに試されたすべての形態を別にすれば、と」

 Y先生によると、独裁専制は社会を一つの方向にまとめ上げるには有効である。どの国でも国民の希望は生活の改善である。そのためには経済成長が必要だ。独裁国家では命令一下で資源を動かせるから、急速の経済成長が可能になる。だが強引な手段の積み重ねからやがて息切れし、民心が離れ始める。民主主義国では政権交代になるが、専制国家では自発的に政権を譲り渡すことはなく、政権存続が至上命題になる。その手段として歴史教育をはじめとする思想統制強化であり、周辺国に対する敵対感情を国民に植え付けて紛争を誘発させることになる。緊張状態が継続している間は、国民の関心を経済問題からそらすことができ、政権は安泰になるからだ。戦争景気で経済が上向けば言うことなし。平和を唱える民主守義国は格好の攻撃対象国にされる。

 専制国家が一つでも存続する間は、世界平和は実現しないとY先生。

「でもアフリカや中央アジアなどの貧困国では、高邁な民主主義の理念より、今の飢餓状態からの脱出が先というのではないかしら。現に何十年も一人の独裁元首の支配が続いている国々が大半でしょう。北アフリカのチュニジアなどでの民主化運動(ジャスミン革命)も民主主義政権樹立には至っていませんよ」。このあたりは新聞情報の受け売りで対応。

「経済力も軍事力もない独裁国家は無視できますが、困るのが中国です。民主主義のかけらもない一党独裁体制であり、今は毛沢東時代に逆戻りの権力集中が進んでいます。しかるに経済力でアメリカをしのぎ、軍事力でも凌駕しようとしています。国内の不満を抑えるためにその軍事力を使うことになると歯止めが効きません。がん細胞が小さいうちならつぶせますが、大きくなると手に負えないのと同じです」

中国の一帯一路戦略に喝采していた途上国でも、中国が仕掛ける債務の罠の実態が知られるようになったが、それでも途上国の首脳たちの北京礼賛は変わっていないように見受けられる。それはなぜなのか。

「中国の経済成長率です。白猫でも黒猫でも、ネズミを取るのがよい猫であるという格言があります。白猫は民主主義、黒猫は専制主義、そしてネズミとは経済成長率の例えです。中国では年に6%以上の成長率が続いている。これに対して民主主義国ではどうか。特に日本では30年近くもゼロ成長から抜け出せない。日本との付き合いはほどほどにして、中国流の政治経済体制を導入したほうがよいとなるでしょう」

経済成長できる民主主義に
 Y先生の所説に圧倒されるが、それじゃ日本はどうしたらいいの。日本の憲法を改正して民主主義を否定し、中国流の一党独裁制に移行するか。それとも「太ったブタよりも痩せたソクラテスでいたい」として、生活向上を我慢して民主主義陣営に留まるか。

 Y先生はクラスの留学生の悩みを紹介した。当人は父親が台湾人、母親が中国人のハーフであると自己紹介した上で、卒業後は日本に就職したいという。彼は中国の台湾軍事侵攻を必然と見ており、台湾に帰国していれば命の保証がない。自由がない中国社会は嫌だ。彼の従兄弟は日本も危ないとみて、留学先をアメリカにしたのだとか。

 若者が国を捨て、流浪の民になるかもしれない危機感が日本人にはなさすぎるとY先生。有史以来この島国に住み着き、圧迫されての民族移動の経験がない日本人には想像できない事態だ。中国と対等に渡り合うには、それ以上の経済成長率を達成し、民主主義の経済優位性を示すことで世界の諸国との友好同盟関係を築くこと。その方策についてY先生に処方箋はあるのだろうか。

 よくぞ聞いてくれましたと、Y先生は胸を叩いた。専制国家にはない自由が民主主義社会にはある。そして経済理論が正しければ、自由がある社会の方が長期的な経済成長力を有する。金融セクターの巨大債務や資産バブルなど、中国経済の内在的非効率はつとに指摘されていることでもある。

「日本の民主主義の問題は、政治家も国民も目先のことしか考えなくなっていることです。それが本来の成長力を奪っています。経済競争に勝つには長期的視点に立つことが肝心です。勝負の決着は20年、30年先。その覚悟を固めれば対策はあります」。Y先生は選挙関連の法制度も研究対象なのだそうだ。

有権者の質改善
 民主主義とは「主権が国民に存すること」。これも憲法前文の文言である。国民一人ひとりが政治を主体的に運営する。そして政策決定をする政治家を選挙で選出するのだが、とんでもない人物を選び出しては大悲劇。長期的ビジョンに基づき国家運営を考え、決めたことは貫徹する。人気取りのバラマキをさせない。必要以上の財政支出をさせず、国民負担を最小に抑えて経済活動を活発化させる。外交でも筋を通して民主主義国間の連帯を強化する。これがあるべき政治家像。

「まず必要なのは有権者のレベルアップです。具体的には、投票権取得試験を実施する、納税、勤労など国民の義務履行実績に応じて投票価値を加重するなどが考えられます。また投票の義務化も有効でしょう。懈怠者には罰金徴収のほか、社会福祉給付の制限などをすることです」と斬新な提案だが、Y先生によると実施している国もあるそうだ。

「選出される側への注文もあります。立候補条件として所定年数の実社会活動歴を必須とする、議員通算任期を10年上限として議席への執着をなくす、報酬は引退後20年先での業績評価による後払いとする、低投票率選挙区では当選者なしとする…」

 政治家を家業や利権対象ではなく、一身の名誉をかける仕事とするということだろう。だが既存の政治家の抵抗を排する方策は?有権者の直接投票でなきゃ、こんな新法通りっこない。それに触れる前にY先生、お酒が過ぎたのか、カウンターに突っ伏して寝てしまった。

(月刊『時評』2020年3月号掲載)

寺内香澄(てらうち・かすみ)(有)総合社会政策研究所。ショートストーリー作家としても活躍。単行本として『さわやか福祉問答』(ぎょうせい)。
寺内香澄(てらうち・かすみ)(有)総合社会政策研究所。ショートストーリー作家としても活躍。単行本として『さわやか福祉問答』(ぎょうせい)。