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菜々子の一刀両断ってわけにはいかないか……【第207夜】

児童育成支援の新保険

写真ACより
写真ACより

私の名前は松下菜々子。深川門前仲町で久寿乃葉という小料理屋を営む。未婚、子なし。恋人募集中。世間の皆さんあるいはお店の常連のお客様同様、将来に不安を感じている。砂浜の真砂が尽きないように、私の老後不安にも底がない。同年代の客も同様と見えて、カウンター席でも座敷席でも、その種の会話が多いように見受ける。客の話に合わせるのは接待の基本。菜々子も、新聞、テレビ、図書館で、その種の勉強に怠りはない。

孫が増えた…のだが

 Mさんはだれもが知る大企業の本社部長まで勤め上げて定年退職した。まあ成功組といえるだろう。準“上級国民”と当人も認めている。娘と息子の二人を育て上げ、この点でも胸を張ってよい。しかし今日は心なしか元気がない。

 娘さんが3人目を産んだ。上の二人は小学生だから、歳が離れている。上の子のときのベビー服やバギー、遊具は処分済みだから、一から揃え直すことになる。手伝いに駆り出されるMさん、とくに奥方は歳相応に体力が衰えている。Mさんも年金暮らしだから、上の子たちのときのようには経済援助はできない。

 娘さん夫婦の勤め先はMさんが勤務していた大企業とは違って、「会社は働きにくる場であり、家族の問題を職場に持ち込むな」といった雰囲気である。当然、扶養家族のための手当支給などはない。精勤手当はあるが、子どもの学校行事への参加のために有給休暇を取得すれば、たちまち受給資格を失う。

 二人は職場結婚。結婚式で仲人役の上司が「二人は粉骨砕身会社に身をささげる覚悟です。子どもができたから会社を辞めるなどの弱音を吐かないガッツがあります。この点は上司たる私が責任をもって保証します」と紹介し、社長が「二人そろって定年を迎えるまで、会社が繁栄存続するよう経営者の責務を果たす」と決意表明。

 「参列者の多くは、女性の活躍に理解がある会社と受け止めたようだが、ボクには違和感があったな」との当時のMさんの言葉を思い出した。あれから10年を経て、3人の孫が生まれたことになる。

児童手当に支給制限

 その娘さん夫婦が怒っているという。そしてMさんも基本的に同感だそうだ。怒りの対象は政府の児童手当に対する方針。これまで二人の子について、それぞれ月額1万円ずつ支給されていた。第3子はこれが1万5千円になる。合計3万5千円。夫婦はこれを前提に算段していた。

 ところが政府の方針転換で、娘さん夫婦の児童手当はゼロ円になるおそれがあるという。むろん政府方針には合理的理由があるのだが、とMさん。共働き若夫婦にとって勤務時間帯に子どもを預かってくれる者は不可欠。女性の職場進出とともに保育所整備が必要になる。しかし公費が主財源の認可保育所の増設には財源確保という課題があり、希望しても受け入れてもらえない「待機児童」が存在する。保育所を増やしても、新たな需要が湧き出すイタチごっこが続いているわけだ。

 政府が目を付けたのが児童手当。手当額は子ども一人月額1万円あるいは1万5千円なのだが、所得制限という制約がある。世帯主の年収が960万円を超えると支給停止の処分が下される。ただし不支給ではなく、子ども一人につき月額5千円だけは支給されてきた。この特例支給を廃止する。つまり全くの不支給にするのが政府方針。同時に今は世帯主の年収が基準だが、世帯の合計収入に改める。※

 「子育て世代で年収960万円は上位層だろう。代わりに保育所ができるのであれば我慢できるのでは」。政府の担当官はそう考えたのだろう。

 だがその結果、共働きのMさん夫婦は年収基準を超えており、児童手当を支給されなくなる。では世帯収入の合算をしなければよいのか。これにも反論がある。出産時の親の年齢は逐年高くなっており、上の子と間隔をおいて産む親では40代が珍しくない。そうなると年功賃金制のもとでは制限収入額を超えてもおかしくない。子どもために身を粉にして働き、ようやく昇格昇進を勝ちとったら児童手当を不支給。

 「まともな稼ぎを得ている者には子育てをさせないというのが、日本政府の方針なのですか」。婿さんに難詰されて閉口したとMさん。「あいつは酒癖がなあ」とつぶやいたが、本音は酒席を共にできて嬉しそう。久寿乃葉に連れていらっしゃいよと言ったら、Mさん頷いた。売り上げ増がカウントでき、菜々子もにんまり。

児童手当の支給理由

 娘さん夫婦よりも強烈だったのがMさんの主張。児童手当の本質に迫るものだ。「親が子を育てるのは動物としての本質義務だと思うぜ」。これには異論なし。

 「よって児童手当制度は根本から変えなければならない」

 Mさんの長口舌を要約しよう。日本の雇用の特色は終身雇用と年功賃金。若い時分は総じて会社への貢献に見合わない低賃金。子どもを産み育てるという本能を、企業の賃金制度が妨害する。それを補正していたのが、家族手当などの企業の福利厚生。だが、企業の競争環境が厳しくなる中で、福利厚生はどの企業でも後退傾向にある。

 個別企業での対応が難しくなっても、子育て労働者への経済支援の必要はなくならない。そうであれば全企業の共同連帯に移行すればよいことになるはず。Mさんは労災保険を事例に挙げた。業務上の災害では企業が補償するのが、労働法制での原則。しかし事故が表面化すれば、費用がかかる上に、競合企業に攻撃材料を与えることになるから、心情的に事故隠しに走り、補償はおざなりになる。そこで政府が乗り出し、国内全企業が加入する賠償責任保険を制度化した。これにより補償費用を免れるために事故隠しする誘因が減り、また保険料が事故実績を反映することから、各企業が職場の安全衛生に心配りするようになった。

 児童手当を同様の観点から再設計するべきだというのが、Mさんの考えだ。

「ただ違うのは、だれもが望まないのが労災であるのに対し、子育ては望んだ者だけが給付対象になる。この点で予期しない不都合、保険用語でいう“逆選択”が生じない工夫が求められる」

具体的制度案

 Mさん自信満々の表情になってきた。現役時代には会社の財務分析と資金調達にらつ腕を振るい、政府の審議会委員常連であった社長や会長の発言内容を差配していたときを彷彿させる。Mさんの具体案を聞き出そう。

 「労災保険のように全企業を強制加入させる保険を創設する。保険料は原則、企業負担だが、雇用保険のように半額を労働者負担にしてもよい。それよりも重要なのは、保険料率は企業、事業所の経費発生度合いを勘案して設定すること」労災保険の保険料率は、事故発生率の高低により、業種間で数十倍もの差がついている。また個別企業ごとの過去3年間の給付金発生度合いによっても上下変動が行われる。労災を発生させないことで保険料を節減でき、逆に事故発生が多いところは保険料増のお仕置きを受けるわけだ。

 「従業員の出産率が高いところの保険料率を高くしたのでは、従業員に子どもを産むなという企業ばかりにならない?」

 菜々子の問いを想定していたかのようにMさんが続けた。「ママ、よく気付いたねえ。そこがポイント。児童手当受給労働者の従業員に占める比率、すなわち受給者率はすぐに算出できる。全企業の受給者率と個別企業の受給者率を出し、高いところの保険料率を下げ、逆に低いところの保険料率を高くする」。児童扶養労働者比率に逆比例させるのだ。

 それだと出生率が全国的に高まり、保険財政が厳しくならないかしら。この問いも想定済みのようだった。出生数の落ち込みが全産業界にとっても由々しい事態というのが制度の基本。出生増は望ましいことだから、標準保険料率の引上げに応じるはず。そして合計特殊出生率が2を超えて定着するようになれば、給付額を下げればよいと涼しげに続ける。

新児童保険の守備範囲

 2009年に政権を一時奪取した民主党は児童手当を子ども手当に衣替えして月額2万6千円に大増額するはずだった。所得制限も撤廃されるはずだった。しかし財源の工面がつかず、すべてが掛け声倒れだった。Mさんがラフな計算を示す。

 「6千万人の労働者がいるとして、一人当たり平均年10万円の保険料を企業から徴収すれば6兆円になる。20 万円だと12兆円。これに対し15歳未満の年少人口は約1500万人だから、子どもひとり月2万5千円、年額30万円を無条件支給しても4.5兆円。子どもの数が倍増した段階でも9兆円。保険財政は堅調そのもの」とMさん。続けて、児童手当の増額だけでは不十分という。

 児童手当の特例給付廃止は保育所増設資金の捻出だったことを思い出させたうえで補足した。

 「労働者は子どもを会社に連れていけない。そのための保育所だとすれば、会社がデスクやパソコンを用意し、通勤費用を支援するのと同様に、保育費用の大部分を企業が負担すべきだ思う。だとすれば自社労働者の保育所費用をしっかり支援する企業に対して、その半額程度をこの新保険から給付するのがよいと考える。同じ論理で、育児休業支給も企業に任せ、同様にその半額程度を新保険から給付することにするのがよいだろう」

 Mさんらしい壮大な構想だ。国費など公費投入も必要ない。現実性はどうだろう。

 「子どもを産まない主義の人は反対しそうね」と茶々を入れてみた。

 「たしかにそうだが、人口減で日本社会も産業界も深刻な危機感がある。それでも新保険に反対という意見が多数を占めることは絶対にないね」

 政府、政治家の本気度だけが懸念材料とMさん。でも現代日本社会の病理がまさにこの決断できない体質なのだ。
(※ 所得制限での夫婦合算制は評判が悪く、今回は見送りになった。しかしいずれまた提案される可能性がある。)

(月刊『時評』2021年2月号掲載)

寺内香澄(てらうち・かすみ)(有)総合社会政策研究所。ショートストーリー作家としても活躍。単行本として『さわやか福祉問答』(ぎょうせい)。
寺内香澄(てらうち・かすみ)(有)総合社会政策研究所。ショートストーリー作家としても活躍。単行本として『さわやか福祉問答』(ぎょうせい)。