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菜々子の一刀両断ってわけにはいかないか……【第222夜】

日本国憲法における平和と戦争

うまいものブログより
うまいものブログより

私の名前は松下菜々子。深川門前仲町で久寿乃葉という小料理屋を営む。未婚、子なし。恋人募集中。世間の皆さんあるいはお店の常連のお客様同様、将来に不安を感じている。砂浜の真砂が尽きないように、私の老後不安にも底がない。同年代の客も同様と見えて、カウンター席でも座敷席でも、その種の会話が多いように見受ける。客の話に合わせるのは接待の基本。菜々子も、新聞、テレビ、図書館で、その種の勉強に怠りはない。

般若心経で習字

「写経を始めたよ」。Nさんが墨書した自筆の般若心経をKさんに自慢している。

「この1枚を書くのにほぼ1時間。一節ずつ唱えながらお手本をなぞる。次第に心が無になり、世の中のわずらわしさから逃れられる。その後で夕餉の食卓に向かうと孫が言うのだ。『じいちゃん、優しい顔つきになったね』って」

 よく言うよ。写経をすると精神的に落ち着くらしいよと教えてあげたのは菜々子でしょう。ゴルフをやめる。カラオケにも行かない。散歩のし過ぎで腰を痛めた…。年金暮らしの不如意を言い募るNさん。彼の苦境は分かるが、「久寿乃葉通いの回数を控える」となっては、困窮が菜々子にも及ぶ。それで百均の写経セットをプレゼントした。お手本に書写用の和紙が7枚付いている。一週間で百円。これで久寿乃葉に通えるでしょう。

どれどれと覗き込んだMさん。

「観自在菩薩…。どういう意味だ。『自らをしっかり見つめれば、心の中に菩薩がおわします』ということか。深淵に感じるが、それでNクンは悟りの境地に達したのかい」

 Nさん頭を搔くしかない。まだ1週間だからと、次週用に自分で買ってきた7枚セットの束をバッグから出した。「キミも始めないか。学校時代、お互い悪筆でラブレターでも苦労した。習字の練習になるぜ」

「キミが振られたのは字のせいだけではないだろう。手紙の内容だ。ボクの手紙には誠があったから、今の女房と結ばれた」とNさんの痛いところを突いたのに続いて、「般若心経はすべて漢字だ。習字なら仮名交じり文で練習しなければダメだろう」とMさん。

お手本に日本国憲法

「いいお手本はあるかな」。二人の視線がこちらに向かう。菜々子の字はこの二人に比べればマシだけど、習字の師匠を務める腕前ではない。文字数が適量(1時間ほどで書き上げる量)で、漢字と仮名がほどよく混じり、文意が一読では難しくて、読み込めば読み込むほど解釈が広がり、深まるような文章があるか。

「日本国憲法の前文はどう?」

 ウクライナで戦争がはじまり、国際世論が沸騰している。戦端が開かれるとすれば、ウクライナでなければ台湾、あるいは双方同時というのがマスコミの予測だった。こうした事態はわが国の存立にも直接かかわってくる。これまでのように「わが国には平和憲法がありますので、関わり合いにはなれません」とは言っていられない。各国がどちらを支持するのだと踏み絵を突きつけられている。岸田総理は「ウクライナへの支援と連帯」を表明し、防弾チョッキや軍用ヘルメットなどの装備品を送り、ロシアに対してはG7の経済制裁に同調した。ロシアは「日本を敵対国とみなす」と通告してきて、松野官房長官がモゴモゴ記者会見で不満を述べていたが、これは見苦しい。戦闘行為と経済制裁は別物というのはこちら側の論理。自分こそがルールを決める存在であると信じこんでいるプーチンのような独裁者にとっては、意のままにならない者はすべて敵対者。デマやサイバー攻撃に始まり、ミサイル・砲撃・爆撃、毒殺、化学兵器に生物兵器…なんでもありなのだ。核ミサイルの先制攻撃を匂わせたと報じられているが、何を今さら。「撃つか撃たないかは自分たちの判断事項」としていて、西側から先制攻撃されることはまったく想定していないのだ。そのくせ自分たちが先制攻撃をするのは正当だと思い込んでいる。

 西側(民主主義)と東側(専制主義)では、発想や論理の建て方が違う。この点、徹頭徹尾民主主義の論理を書き連ね、専制主義者は存在しないはずという前提で書かれているのが、日本国憲法の前文。「経典のようで何を言いたいのか分からない」という批評も聞かれるが、それは専制主義を知らないからで、当人たちの不勉強。

書写を始めよう

 おもしろい。やってみよう。二人は賛同した。さっそく習字のお手本作成に取りかかる。ネットで憲法前文を検索。次にこれをA4用紙に転写。用紙を横長に変え、文字列を縦書きにする。書体がMS明朝では習字には不向き。とりあえずHGP行書体に転換。文字の大きさを24ポイントにしたら、ちょうど用紙2枚に納まった。人数分印刷する。

 憲法の各条項(例えば9条とか69条とか)を個別に論じる人は多いが、前文を読み込んでいる人は多くないというのが菜々子の感想。憲法学者の解説でもかなりおざなりの印象だ。前文こそ基本概念だから、3分の1以上の文量と熱意を注いでほしい。という菜々子も、前文が4つの段落で構成されていることを初めて知った。

「最初の段落を書き終えるまでお酒はお預け」と宣言して、書写用の紙を配る。

民主主義が人類普遍の原理

「第一段落を書けた」の声が上がる。菜々子もほぼ同時だった。ビールを片手に批評会。

「相変わらず下手な字だな」とMさんがNさんに言う。菜々子の目では目くそ鼻くそ。

「書写を繰り返せば字は上手になります。それよりも文章をどう解釈したかを論じあうのよ」と菜々子。始めた作業の趣旨をすぐに忘れてしまうのは歳のせいにして許そう。

「『政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやう』の箇所が一般的に強調されるけれど、それに続く『ここに主権が国民に存することを宣言し』の方がこの段落の重要部分ではないかと思ったね」とNさん。

「オレも同意見だ」と頷いたのがMさん。「最初の文は『日本国民は、正当に選挙された…』で始まり、『主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する』が述語だ。中間に戦争がどうとかあるので混乱するが、言いたいのは国民主権、民主主義憲法だよということに尽きている。高校の国語教師なら文意をそのようにとらえるはずだ」 

「そしてこの民主主義を『人類普遍の原理』と定義しているのよね」。これは菜々子。

国際連帯

 続いて第二段落の書写に移る。前の段落に比べて分量はほぼ4分の3。改めて頭でっかちの文章だと思う。3人せっせと書く。次のビールタイムが待っているのだもの。

 Mさんが最初に発言。「『平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して』の部分から非武装を説く意見があるが、読み違えであると確信できる。だって続く文で『平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ』となっている。国際社会のルールを述べたうえで、それとは違う行動をする国や専制者がいたら許さない。日本はその先頭に立つと宣言している。そのための手段を持っていなければ文意が通じない」

 菜々子も続けた。「『全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する』としている以上、行動が伴わなきゃ、指を咥えてみているのでは、憲政国家ではないわ」。

「『公正と信義』の面で信頼できる国とできない国の見極めが重要だ。憲法が制定された時点では〝ならず者国家〟はないとされたが、今は違う。許されざる者を『地上から永遠に除去する』具体的行動を憲法が求めている。その意味で、前文に『軍備放棄』など一言も書かれていないことに気づく必要がある」とNさん。

専制国家の存在

 追加のビール提供を中断して、書写を第3段落に進める。文章はさらに短くなり、前の段落の半分、100字ちょっとだ。書きあがりは菜々子が一番。

「民主主義が普遍的政治道徳であるとしつつも、それ以外の政体を許さないとまでは言っていない。心が広いことに感心したわ」の菜々子の感想に対して、Mさんがつけ加える。

「しかしその後にこう続いているぜ。『この法則に従ふことは、自国の主権を維持し、他国と対等関係に立たうとする各国の責務であると信ずる』。つまり真の民主主義国の存立は保証するけれど、それ以外の政体、特に『専制と隷従、圧迫と偏狭』の国家や指導者に対する支援はあり得ないと宣言しているのだとオレは思うね」

 続いてNさん。「最後の第4段落は特に短くて50字もないから、一気に書き上げた」と前置きして「『日本国民は、国家の名誉にかけ…達成することを誓ふ』と結んでいる。義を見てせざるは、勇なきなりの格言を思い起こしたよ」。

 ロシアの専制主義リーダーが、ウクライナの民主主義を踏みつぶそうとしている。

「日本国憲法の下にある国民としては『われわれが人類普遍の原則と信じる民主主義』への破壊攻撃であり、国家・国民の名誉にかけてその野望を打ち砕かなければならない。それが子孫の誇りになるということではないか」

「3月にウクライナの大統領が日本の国会で演説した。日本国憲法の精神を踏まえた内容であったことに気がついたよ」とMさんが補足した。

 まだ1回目の書写会。何度も繰り返せば別の考えに達するのだろうか。いずれにせよ日本国憲法は他力本願の無責任なものではない。日本国民に世界の民主主義のため国際社会と連帯しての積極行動を促している。常識的国語力で前文をしっかり読み直すことだ。思考停止の集団催眠にかかっている人が覚めなければならない。

 いずれにせよ自国の立場を旗幟鮮明にしなければ、国家として信頼されない。これが今日の結論。書写を終え、ビールから日本酒に切り替え、話題も別に移した。この季節は日が長い。窓には夕焼けの残影が残っている。

(月刊『時評』2022年5月号掲載)

寺内香澄(てらうち・かすみ)(有)総合社会政策研究所。ショートストーリー作家としても活躍。単行本として『さわやか福祉問答』(ぎょうせい)。
寺内香澄(てらうち・かすみ)(有)総合社会政策研究所。ショートストーリー作家としても活躍。単行本として『さわやか福祉問答』(ぎょうせい)。