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菜々子の一刀両断ってわけにはいかないか……【第264夜】

神隠し?真相と意図は?

写真ACより
写真ACより

私の名前は松下菜々子。深川門前仲町で久寿乃葉という小料理屋を営む。未婚、子なし。恋人募集中。
世間の皆さんあるいはお店の常連のお客様同様、将来に不安を感じている。砂浜の真砂が尽きないように、私の老後不安にも底がない。同年代の客も同様と見えて、カウンター席でも座敷席でも、その種の会話が多いように見受ける。客の話に合わせるのは接待の基本。菜々子も、新聞、テレビ、図書館で、その種の勉強に怠りはない。

高齢者連れ去り事件

「大きな政府」か「小さな政府」か。国民が選挙での投票先を選ぶ際の判断ポイントだ。だれだって税金は少ない方がよい。かといって何もしてくれない政治でも困る。必要なことは微に入り、細に入ってやってくれるが、大きなお世話の領分には決して手を出さない。そうして「福利最大、税金最少」社会を実現する。今宵の久寿乃葉では、これをベースでのディベートになった。

 発端は菜々子がもらってきた1枚のチラシ。その要点をかいつまむ。

――区内で一人暮らしの高齢の母(98歳)が行政によって居宅の玄関を押し破られ、強引に連れ去られてから半年余り。家族は所在を知らされず、会わせてもらえません。母は預金管理を社会福祉協議会に依頼していたが勝手に引き出された形跡があり、母の安否が心配でならないのです。助けてください。――

 これについてどう思うかとLさんとRさんに振ってみた。チラシには、連れ去られた女性の氏名、生年、住所など明記してあったが、ディベートの本筋ではないから単にAさん、そして家族をBさん(養女)とCさん(その連れ子)としておこう。

誰が連れ去ったのか

 Rさんが口火を切った。

「強引に連れ去ったとあるが、北朝鮮、ロシア、中国ではあるまいし、日本の行政がそんなことをするはずがないだろう。チラシの内容に信ぴょう性はあるのか」

 当然と言えば、当然の疑問だ。だが、ネットを検索していたLさんがビデオを示した。

 制服の数名が鍵を壊して入り込んでくる衝撃映像だ。

「犯罪捜査であれば裁判所発行の令状を示すはずだが、映像にはその情景はない。その点はどうなのか」

 Rさんも負けずにネットを検索。ある通信社の報道記事を見つけたようだ。

「犯罪捜査ということではなく、高齢者を虐待から守るための保護活動だったのではないか。そうであれば身体保護の緊急性から、住宅に乱入するのに令状は必須ではない」

 昨今は虐待事件が起きると「行政は何をしていた」と非難が殺到する。幼児虐待などで顕著だ。しかし児童相談所が親による虐待情報を得て駆けつけても、「家庭内のことに干渉するな」と暴力的に妨害される。その種事例の続発に国民は怒り、所長の法的権限が強化され、強制的に親から引きはがし、抵抗に備えて警察官の同行を要請することができるなどが可能になっている。それでも権限行使には二の足を踏む、事なかれ相談所長が少なくない。

「不甲斐ない行政関係者が多い中、この件では積極的に権限行使をした。説得で埒(らち)が明かなければ拉致(らち)の強硬手段はやむを得ない。区民、国民の人権を守った賞賛すべき事例との見方をできないか」。Rさんは、埒と拉致の自身の掛け言葉の部分にことさらアクセントを置いた。

 チラシに戻ると、押しかけて来たのは、「警察官数名」のほかにA子さんの担当だった「社会福祉協議会の職員」、さらに「区の福祉部職員」であったと書いてある。

虐待の形跡はあるのか

 押し込まれた感じのLさんだが、負けを認めたのではお酒がおいしくなくなる。Rさんの手からスマホを奪い取り、記事の続報を読んでいた。

「虐待が事実あるいはその疑いが濃厚であれば、緊急手段として強硬保護することは行政の守備範囲かもしれない。でも記事では『行政は当初、家族による虐待を匂わせたが、今は否定』とある。家族による虐待について相当の疑いを持って強制手段を取ったとしよう。しかしその疑いが薄まったのであれば、保護を取り消して自宅に返すべきではないか。勇み足はあってよい。ただし、間違いを認める実直さが伴わないと、市民の権利侵害が常態化し、容易ならざる事態に発展する」

 Rさんも負けてはいられない。

「区職員や警察官が訪問したときに、娘や孫は女性宅を訪問中だったというではないか」と軽くジャブ。たしかに居合わせたからCさんが侵入状況をビデオ撮影できた。「家族は虐待しておらず、当人との関係も良好であったと記事には書いてある。そうであれば連れ去ろうとする社協職員等に対して体を張って抵抗したはずだ。記事を読む限り、Bさん、Cさんが公務執行妨害で身柄後続されたなどの記述はない。家族として連れ去りに同意していたのではないか」

預金紛失

 その可能性はある。菜々子の直感だが、決め手の情報はない。論争継続のため、追加の題材を提供した。チラシでチラッと書かれている社協職員による、女性の預金の一部消失問題だ。

 Lさんが飛びついた。

「区の社会福祉協議会が強引に通帳管理契約を持ち掛けたと家族は主張している。そして当人が解約を申し出ても、言を左右になかなか応じない。『私のおカネだから下ろしたいの』、『いえ、ダメです』のやり取りの音声記録が残されている。その職員が警官を案内してやってきたのだから、家族が畏怖してその場では何も言えなかったのではないか」

 英米流の陪審裁判テレビドラマであれば、Lさんの発言はかなりの説得力を持ちそう(ⅰ)。Rさんは即座に反発した。

「社協職員の横領が関係しているとのことだが、通帳を調べることで解明できるはず。しかしチラシでは『使途不明金がある』とするだけで深追いしていない。そこが疑問だな。母親に会えなくて身もだえするほど苦しんでいるのであれば、『証拠が少ないので社協職員を疑うのはいかがなものか』などと遠慮している場合ではないはずだ。」

区による成年後見

 Rさん、さらに付け加えた。「高齢女性を強行保護したその日に、女性に対する成年後見開始を区長が行政決定している。Aさんの申し立てで通帳管理契約が終了しても、後見者の同意がなければ、BさんはAさんの預金を引き出せない」

 うーん、そういう見方もできるか。だが、Lさんは観点を変えて逆襲した。

「事実は家族による預金引き出し防止だったのかもしれない。だとしても、行政には家族関係にどこまで介入する権限があるのだろうか」

 記事ではAさんとBさんは昨年養子縁組したとある。養親の預金を養子から護るというのであれば、養子縁組を解消するのが筋で、成年後見を開始して区が預金管理をするというのは、方法としてどうなのか。いずれにせよ、肝腎なのは当人であるAさんの意思。100歳近い高齢者による養子縁組だから、老後の世話と残余財産相続という相互義務がまったく絡んでいないとするのは無理がある。個人間で介護してもらう代償として報酬を支払う契約はあり得る話で、養子縁組はその体裁として使うのはいささか迂遠なような。

「重要なのは当人たちの合意がどういうものであったか、そこに思い違いや錯誤があったか、なかったか」。Lさん、Rさんがほぼ同意。

区長の記者会見

 情報が少なくてディベートは進まない。菜々子としては、やりあってお酒の消費量を増やしたい。秋の夜は長いのだ。

 区のホームページで区長の記者会見要旨を見つけた。Rさん、Lさん、菜々子。それぞれ自分のスマホでそれを読む。突っ込みどころ満載だ。

「強制連行のような形で保護したのは法的根拠があるのか」との問いに、「区職員は法令の根拠に基づいて合法的に行動している。ただしその根拠が何法であるかなどについては説明できない」。これって「行政には説明責任はないと言っているのと同じじゃない。江東区は主権在民ではないと区長は思っているのかしら」。これは菜々子。

「区議会議員に、家族による虐待であると認識していると説明したではないかと問われ、プライバシーに関するので、そうした事実の有無を含めて答えることはできない」。

 Rさんが頬を膨らませた。「家族がチラシに実名を含めて、経緯を詳細に書いている。今さらプライバシーはないだろう」。Lさんも同調した。「Aさんのプライバシー保護を言うなら、区はBさんや記者を告発しなければ一貫しないはずだ」

「警察官を同行させたのはなぜか」の問いに、区長は「警察に聞いてくれ」。Lさんが首をひねる。「警察官同行要請は区の行政判断だったはず。警察の独自判断で個人宅に押し入ったとすれば、国家公安委員長のクビは確実に飛ぶ」。などなど…。

 ここで議論が転回。高齢者が詐欺メールや振り込め電話で老後資金を奪われる事件が続出している。積み上げれば数千億円、あるいは数兆円。にもかかわらず制度的、体系的な予防対策は進まず、「明日はわが身かも」と老後準備預金を持つ一般高齢者がおびえている。高齢者にカネを配るのではなく、持っている資産をだまし取られないようにすることが大事なのだ。夜はようやく更けた。

 今宵の結論は「わが区長は真のあるべき高齢者対策を提起したかったのだ」ということで…。

ⅰ 本題に関係ないけど、菜々子は最近、アメリカの刑事ドラマにはまっている。容疑者逮捕で一件落着の日本物と違って、起訴を躊躇する検察官との喧々諤々のやり取り、法定での捜査官への証人尋問で信念ある受け答えなど、社会治安がどのように維持されているかを伺うことができる。

(月刊『時評』2025年11月号掲載)

寺内香澄(てらうち・かすみ)(有)総合社会政策研究所。ショートストーリー作家としても活躍。単行本として『さわやか福祉問答』(ぎょうせい)。
寺内香澄(てらうち・かすみ)(有)総合社会政策研究所。ショートストーリー作家としても活躍。単行本として『さわやか福祉問答』(ぎょうせい)。