
2026/03/04
私の名前は松下菜々子。深川門前仲町で久寿乃葉という小料理屋を営む。未婚、子なし。恋人募集中。
世間の皆さんあるいはお店の常連のお客様同様、将来に不安を感じている。砂浜の真砂が尽きないように、私の老後不安にも底がない。同年代の客も同様と見えて、カウンター席でも座敷席でも、その種の会話が多いように見受ける。客の話に合わせるのは接待の基本。菜々子も、新聞、テレビ、図書館で、その種の勉強に怠りはない。
「年収の壁」大幅引上げ
稼いだカネの一部を政府に納める。これが所得税。でも稼ぎが少ない年には納められないという声が多くなって課税限界点が引き上げられた。103万円だったのが178万円に大幅アップ。限度額が上がれば所得税免除対象者が増える。例えば国民のうち半数以上が免除されるようなことになれば、国民主権の点で問題ないか。
わが国の政体は国民主権。国の政策を決めるのは国民。そして権利の対面に国民としての義務があり、一つが納税義務(憲法30条)。しかるに基盤税である所得税で免除者の方が多いとしたら?
近年、選挙の投票率が低迷している。それに危惧を持つ人は多いのに、税金を納める人が少ないことに鈍感なのは問題ではないか。権利と義務は表裏一体。義務を果たしているから、権利の主張に迫真性が生まれる。義務を果たさないのに権利を人一倍要求する。そういう社会は脆い。独裁者の攻撃の的になる。今日はそんな話。
卒寿の祝い久寿乃葉政談
「先輩、おめでとうございます」と参集者が口々にご挨拶。久寿乃葉ただ一つのお座敷での宴席中央に陣取るZさんがこの会の主賓。幹事役のMさんにこそっと聞くと、この方を慕うお役所時代の後輩たちの集まりとのこと。そのMさんは、先般、久寿乃葉に子や孫を集めて「傘寿」の祝いをしたばかり。ということはその先輩であるZさんの御歳は?
「卒寿」の祝いなのだという。コロナの外出自粛要請で延び延びになり、正確を期せば今となっては「白寿」の前祝いに近いのだが、そんなことはどうでもいい。われらが大将であるZさんの元気に触れ、あやかりたい者が集まっている(ⅰ)。
高齢者が集まると話題は絞られがち。病気の数を競うか、孫の進学先を自慢するか。しかし、今日の「卒寿会」は違った。「歳をとっても国家国民の行く末に役立つ存在でありたい」気持ちがありあり。さすが国家と国民への忠誠を誓った元お役人である。お客さまへのヨイショを差し引いても、今日は感動した。
天下泰平だったはずの19世紀の江戸時代。四海には大砲を積み、陸戦隊を乗せた外国戦艦がうようよ。北方からはロシアのコサック騎兵隊がじりじり南下し、朝鮮に駐屯する勢い。このままでは国家自体が併呑されてしまう。インドや清国のありようを見ていれば、だれもが抱く心配。しかるに徳川政権の閣僚たちは、「気配りして摩擦を避けるのが大人の知恵」とばかり、相手の言い分を飲むだけで、闘う気力なし。
ならばわれわれがと、名もない若者たちが立ち上がった。小さな渦が大きなうねりとなって、ついに強大な徳川世襲独裁政権から政治権力を奪取した。ただしそこでフランス革命のように、旧支配層を軒並みギロチン台送りにしなかったところが偉い(ⅱ)。
歳をとっても国士でありたい
そうして出来上がった明治新政府。身分差別撤廃から始まり、殖産興業の成功で飢餓の恐怖から国民を開放。次男、三男は食い詰め奉公で生涯、伴侶を持てない悪習が打破された。その結果が人口急増。昭和前期の国策誤りにつながるが、それはその時点の政治家の責任。ともあれ他国の植民地にならず、独立国家を維持する礎を築いた先人の功績を語り継がなければならない。
「20代、30代の若手国家公務員時代を思い出して、真剣に語り合おう。国家・民族の危機の際、郷里の吉田松陰先生の『松下村塾』における高杉晋作、伊藤博文、山縣有朋のように」。Zさんの出身地が分かり、「薩長同盟」のよしみで親近感を持った(ⅲ)。
明治維新の成功で国家消滅を免れたわが祖国。しかるに昨今は軍事力強化に狂奔し、平和ボケしている民主主義国に攻め入る機会を伺う独裁者に媚びる者が跋扈している。自ら戦わなくてだれが助けてくれる?イラクのフセインがクゥエートを軍事占領した際は、民主主義連合が機能した(ⅳ)。だが、プーチンや習近平クラスになると、並みの国の忠告などは意に介さない。その好例がウクライナで、ヨーロッパの民主主義陣営は、ポーランド、バルト三国、フィンランドのように、明日は我が身と分かっていても軍事介入の決断がつかない。これに味を占めて加担しているのが昨今の中国の振る舞い。
国民の権利と義務明確化が国防のかなめ
どうやって主権と領土・領海、それに国民の生命を守るのか。わが国でも核武装論がある。中朝露が大量の核弾頭の照準を東京に合わせている。だから当方も、北京、モスクワ、ピョンヤンに向けて同数を並べるという均衡論だ。Zさんの言い分は?
「キミ、それは無理だよ。相手は隙あれば攻めて来る無頼者の国だ。ミサイルをぶっ放すにも躊躇はない。対する民主主義の軍隊は、主権者たる国民が納得する大義名分がなければ立てない。先制攻撃を受けてから反撃するのでは不利は免れない」
ではどうすれば?Zさんは続ける。
「独裁者が怖れるのは自分のカリスマ性が剝がれるとき。相手が降伏せず、戦争利益が得られないと分かったとき、彼は自国民の暴動によって倒され、リンチで殺される。よって民主主義国側で有効な方法は三つ。一つは絶対に降伏しない国民の強固な意思。二つはかの国の人民に民主主義化を目指して立ち上がらせる宣伝と工作。三つは独裁者と取り巻きの物理的排除。そしてその前に、戦争を仕掛けられない同盟体制構築と集団国防力での圧倒的優位の確立だ」
多くの民主主義国に「兵役義務」がある。お隣韓国で人気歌手グループの面々に兵役通知が来て、ファンが騒ぐ事件があった。それで兵役が国際標準であることを知った国民は多い。Zさんが続ける。
「兵役」というから条件反射的な反対論が出る。今どき、戦線の主力はドローンなど無人兵器。前線で小銃を担ぐ兵士と、無警告で無差別ミサイル攻撃を受ける都市住民のどちらが殺されるリスクが高いか。ウクライナ戦争は教訓になるとした上で、「ウクライナの苦悩はだな」とZさん。「ロシアの侵攻以前、国論がまとまっていなかった。親ロシアで懐を潤す者も多く、いまだに汚職構造として残っている」。
「国民の連帯意識の高低を独裁者は見ていて、工作員やプロパガンダで分断を図る。ウクライナの耐性が強かったら、プーチンは自制したでしょうね」とMさん。でもゼレンスキー氏の愛国心を見誤ったのはプーチンの誤算。工作員から「彼は逃げ出し、傀儡政権を作れる」と報告されていたに違いない(ⅴ)。菜々子にも想像できる。戦争が長引いて困るのは、ほんとうはプーチンなのだ。だからトランプ大統領をせっついて休戦工作をさせている。
国民連帯の基礎としての均等税
かつてイギリスにサッチャーという女性首相がいた。専制政治、共産党独裁が大嫌い。徹底した国民主権論者である。社会主義政策を見直して国民経済を活性化。豊かになった国民の信任で長期政権。アルゼンチン独裁政権に仕掛けられたフォークランド諸島防衛戦争にも勝利した。
彼女が仕上げとして持ち出したのが「国民均等税」。主権者としての責務の一つとしての位置付けだった。国民連帯はお題目ではなく、実行が肝要。金銭負担面が均等税というわけだ。ただサッチャーの新税は、時期尚早だった。大衆課税は問題とか、低所得者いじめだなどのレッテル貼りに負けて退陣に追い込まれた。今になって、彼女がいてくれたらと切歯扼腕のイギリス国民が多いようだが、歴史はやり直せない。
国民年金保険料納付で投票権確保
わが国には均等税に匹敵する制度が既にあるではないかとして、Zさんは国民が漏れなく納付する国民年金保険料を挙げた。
「国民の義務を果たしていることが選挙参加の前提ということであれば、果たしていない者は反省を込めて、その間、選挙権を遠慮するのは理だろう。よって保険料滞納中の者には選挙権行使を停止することでよくないか」
みんなが頷いた。菜々子が質問。保険料免除中も選挙権なしということ?納付義務違反ではないから、制限しなくていいだろうが多数派だった。権利を制約すべきは、資力があるにもかかわらず納付を拒否する者。国民年金法には、「この制度は〝国民連帯〟によって運営する」と明記されている。国民主権と連動させるのは当然ではないか。なるほどと納得。
国民年金保険料を国民均等税とみなせば、活用範囲は広い。納付は現役期間だから、免除を受けていた人は65歳までに追納して穴埋めする必要がある。それを怠ると満額年金にならない。つまり満額年金でない高齢者にも選挙権行使に制限を加える。
また、例えば介護保険や高齢者医療での本人負担率で、基礎年金満額受給者が3割以下であるところ、未納履歴がある者には5割負担を求めるなど。議論は盛り上るが、Zさんは歳のせいか、気づけば船を漕いでいる。「時間も遅くなったので」とMさんの閉会宣言で中締め。
菜々子は、年金事務所への納付記録の問い合わせを胸算段した。
ⅰ 「傘寿」は80歳、「卒寿」は90歳、「白寿」は99歳のこと。ちなみに「還暦」は60歳、「古希」は70歳、そして「喜寿」は77歳のことである。
ⅱ 政変があっても政敵を皆殺しにしないことで皇室が連綿と続いている。この温和性は日本民族のDNAであり、民主主義の素地になっている。
ⅲ 菜々子は薩摩オゴジョです。
ⅳ 湾岸戦争。日本は旗を鮮明にしなかったので、戦費を最大醵出したにもかかわらず、後援国リストから外されて多くの国民が恥ずかしく、複雑な思いをした。
ⅴ プーチンは念を入れて暗殺部隊も派遣したが失敗したとされている。
(月刊『時評』2026年2月号掲載)