お問い合わせはこちら

【トップの決断】ワンダーテーブル/秋元巳智雄氏

危機下における新規事業の確立、新団体の設立という未来志向

あきもと みちお/1969年7月3日生まれ、埼玉県出身。明海大学卒。大学時代、飲食店でのアルバイトでマネージャーを経験。その後、㈱ミュープランニング&オペレーターズに入社、数多くの飲食店を手掛け、頭角を現す。1997年「富士汽船」に転職し、前社長の林氏と共に事業の革新を推進。2000年社名をワンダーテーブルに変更。02年取締役就任、12年より現職。公職等多数。2014外食アワード「外食事業部門」受賞。15年12月「笑顔の接客術」出版。
あきもと みちお/1969年7月3日生まれ、埼玉県出身。明海大学卒。大学時代、飲食店でのアルバイトでマネージャーを経験。その後、㈱ミュープランニング&オペレーターズに入社、数多くの飲食店を手掛け、頭角を現す。1997年「富士汽船」に転職し、前社長の林氏と共に事業の革新を推進。2000年社名をワンダーテーブルに変更。02年取締役就任、12年より現職。公職等多数。2014外食アワード「外食事業部門」受賞。15年12月「笑顔の接客術」出版。

ワンダーテーブルの秋元巳智雄社長は、レストランブランドの経営者としてコロナ禍による苦難に抗いつつ、同時に苦境においてこそ、未知の地平を開拓する指導者でもある。それは業態の変化、新規事業の確立など自社の枠にとどまらず、外食産業全体の思いを終結させた新たな団体の設立にまで具現化している。今回の対談を通じ、過酷な状況下こそパラダイムシフトの契機とする秋元氏の神髄に触れてみたい。

株式会社ワンダーテーブル 代表取締役社長
President & CEO
秋元 巳智雄氏

出入り業者から第二創業の担い手に

末松 ワンダーテーブルさんは、一般的にはグループの各レストラン名の方が知られているかと思われますが、まずは外食産業の一雄としての御社の歴史からお願いできるでしょうか。

秋元 創業は意外と古く1946年、しかも元々は商船三井傘下の富士汽船という海運業からスタートしました。その後90年代に入り、海運事業の低迷によって同社が事業再編を図る際に現在の親会社であるヒューマックスグループが資本参入し、同グループの外食産業部門のノウハウを引き継ぐ形で、徐々に社業の中核をレストラン経営に移行していきます。2000年に定款を改めて飲食専門の会社にするとともに海運からは撤退、その機に会社の商号を飲食事業らしいワンダーテーブルに変更し現在に至る、というのが主たる経緯です。

末松 なるほど、今般のコロナ禍が起こる前に、危機に臨んで事業変革を図り成功した社歴があるわけですね。その過程の中で、秋元社長はどのような経緯で御社と関わりに?

秋元 海運から飲食への転換時、私は飲食店のプロデュースとコンサルティングの会社におりました。言わば、出入り業者というか担当者として同社をお手伝いしていたのです(笑)。94年にブラジル料理のレストラン『バルバッコア』第1号店がオープンした時、私は初めてお仕事をいただき、そのご縁で96年に当社に入社しました。海運から飲食への第二創業時に参画し、事業変革を担ってきたという流れになります。

末松 現在の社業のあらましについてもお願いできましたら。

秋元 10以上のレストランブランドを国内外に展開し、現在128店舗です(2022年4月時点)。しゃぶしゃぶ・すき焼き専門店の『MO-MOPARADISE』、前述の『バルバッコア』などが、代表的なブランドです。海外はアジアを中心に国・地域併せて9エリアに進出しており、そのうち米国では西海岸に4店、『MOMO-PARADISE』を出店しています。

 ただ、今般のコロナ禍以後は店内に座席を置くレストランビジネスが難しくなりつつあることから、テイクアウトやデリバリー、e-コマースなどを通じて食卓にわれわれのサービスを提供していく事業も強化しています。

末松 海外における日本料理への反応などはいかがでしょうか。

秋元 世界の人たちが、自国以外にどの国の料理を食べたいかというと、現在は圧倒的に日本食なのです。以前は中華料理やイタリアンが好まれていました
が、ここ5年ほどはいわゆるB級グルメも含めて日本料理が人気を集めるようになりました。また国内的にはコロナ禍以前から外食産業の市場がやや下がり気味でしたが、アジアを中心に海外の多くの国では外食産業市場は右肩上がりです。それ故、われわれが提供するしゃぶしゃぶ・すき焼きや天ぷらなどの食文化、私は〝食事文化(ダイニング・カルチャー)〟と呼んでいるのですが、それをこうした新興の市場に向けて発信するのは、相互の〝ダイニング・カルチャー〟を知るという点でも大きな意味があると思います。

 今のところ海外に進出している業態はしゃぶしゃぶ・すき焼きと天ぷら、東京スタイルのイタリアンの3業種ですので、将来的には別の日本食のブランドを開発し、それがやがては海外における日本の食文化の発展につながることを期待しています。

窮地で効果を発揮した協力金

末松 2020年年頭以来のコロナ禍では、特に外食産業が深刻なダメージを受けました。御社においてはどのような影響が生じましたか。

秋元 外食産業における中堅・大手の中でも、われわれのような事業展開のモデルは相当の影響を被ったと推察されます。というのもわれわれは、賃料が高い東京・大阪という都心部に特化して出店しており、ロードサイドへの出店や全国展開は行っていません。しかもビジネスモデルとして店舗当たりの平均面積が広く、国内44店舗のうち100坪以上がほぼ7割を占め、大きな店舗では500坪に達します。必然として、政府からかつてない強力な協力金を得たとしても、立地と規模の両面から痛手を被りました。

末松 具体的な数字の増減などをうかがっても?

秋元 はい、コロナ禍以前は国内で年商120~130億円、月平均10億円あまりの売上を記録していました。しかし20年4月の1回目の緊急事態宣言時、ほとんどの店舗を閉めたことにより、月商が8900万円、率にして前年対比9%まで落ち込みました。さすがにこれでは大赤字で会社が持たないので5月から徐々に開店したのですが、それでも月商3~4億円程度でコロナ前の回復にはほど遠く、毎月の赤字が数億単位に上ります。この状態が20年度を通じて続き、また同年度は企業当たりの家賃補助が600万円ほどだったため、営業損失だけで20億円もの赤字になりました。

末松 大変な数字ですね。翌21年度は多少の改善など?

秋元 21年度は通常営業できたのは10~12月までの約3カ月の間で、残る9カ月はほとんど緊急事態宣言かまん延防止等重点措置期間でした。とくに緊急事態宣言中は酒類の提供ができない時期もあり、ディナー中心のわれわれのビジネスモデルでは売上が大きく落ちこみました。結果、同年度の営業損失は17億円でした。ただ、協力金の仕組みが前年より大きく変わったため、キャッシュフローでは何とか若干の黒字にすることができました。経常利益ではまだ赤字ですが、仮に協力金が無ければ債務超過に陥っていたことでしょう。

末松 協力金など各種支援の仕組みがあっても、業態によっては上手く効果を上げられる分野と、必ずしも改善につながらない分野とがあるわけですね。

秋元 そうですね、われわれのようなディナーレストラン型の業態、および居酒屋さんなどは、この協力金が効果を発揮した分野だと思います。この仕組みが無かったら、多くの店舗が廃業閉店を余儀なくされていたと想定されますし、弊社にしても延命が叶ったという点では、これらの支援は相応の意味があったと言えるでしょう。