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大石久和【多言数窮】

日本人の「品性・人間力」

おおいし・ひさかず/昭和20年4月2日生まれ、兵庫県出身。京都大学大学院工学研究科修士課程修了。45年建設省入省。平成11年道路局長、14年国土交通省技監、16年国土技術研究センター理事長、25年同センター・国土政策研究所長、令和元年7月より国土学総合研究所長。
おおいし・ひさかず/昭和20年4月2日生まれ、兵庫県出身。京都大学大学院工学研究科修士課程修了。45年建設省入省。平成11年道路局長、14年国土交通省技監、16年国土技術研究センター理事長、25年同センター・国土政策研究所長、令和元年7月より国土学総合研究所長。

多言なれば数々(しばしば)窮す(老子)

――人は、あまりしゃべり過ぎると、いろいろの行きづまりを生じて、困ったことになる。

 かなり前のことになるが、日本の外務大臣が女性であったことがあった。彼女は外務省の中で自分の宝石がなくなったと騒いだりするなど、今日の感覚ではパワハラといわれかねない事件が省内で頻発していたのだった。

 この大臣が、筆者の記憶だがアメリカのアーリントン墓地で慰霊の献花を行ったことがあった。ところが、この時履いていた靴が問題だった。踵が覆われるタイプのものでなく、踵には紐だけが掛かっているというサンダル風のものだったのだ。聖地にお参りするときには「踵が覆われている靴を履かなければならない」という靴文化を外務省が知らない訳がない。頻繁に式典を行う省だからである。

 ところが、部下が意見を述べると罵倒されてしまうためなのか、誰も注意しないまま彼女は紐靴で献花したのだ。これを紹介しているのはこの大臣の批判をするためではない。このように、われわれが靴を履き始めたのは長い歴史から見るとごく最近のことで、靴文化を十分には習得できていないと言いたいからである。この靴作法を始め、残念な最近のわれわれのたたずまいというべき風景を考えてみたい。

 ①最近、非常に残念な現象がある。踵に紐も何もないスリッパ型の履き物で、電車に乗るなど「外歩き」する人が急増していることである。この履き物など、自宅の庭かベランダに出る時には履くことができるものなのだ。

 われわれは外と内との区別もつかなくなっているのだろうか。災害の際などに速く走ることもできないツッカケを履いて外出している人の増加は、われわれ日本人が正しいたたずまい(人としての生き様)を保てなくなってきたことの象徴のように感じるのである。

 ②たたずまいと言えば、さらに残念なのがペンや箸を正しく持てない人の急増である。最近、レストランなどのレジでお金を払うとき、立派に育てられたとの印象を与えてくれるキチンとした人が、強烈級の奇妙奇天烈なペンの持ち方をしていて驚くことが少なくない。

 正しい持ち方は、最も合理的な持ち方であり疲れにくい持ち方であるから、ペンなら美しい文字も書け、箸ならスムーズに食事もできるのである。だから、幼年期に少し注意して練習すれば、短時間かつ簡単に正しく持てるようになるのである。

 親が子供にしてやれることはそんなに多くはない。世界の首脳に混じって条約や協定にサインをするとき、日本代表だけがへんちくりんなペンの持ち方を世界中に曝してしまうことなど、絶対にあって欲しくないのだが…。

 ③残念なことの続きは食事のマナーである。テレビの食事番組は一切放送禁止をお願いしたいくらいに酷いものがある。食べ物を口に入れる行為は人に見せびらかすものではないとの文化を持たない国はないだろう。

 ところが、この国のテレビでは事情が異なるのだ。大口を開けて食べ物を放りこむ姿を人に積極的に見せるようになってしまったのだ。テレビでの食事風景(一部の食品会社のCMも)は、絶対に見るべきではないし、特に子供には絶対視聴禁止だ。

 ④もっと重要な問題がある。それは子供(昔は子供だけだったが、それが中年齢になってきた)の名前である。以前にも述べた記憶があるが、「名前は初見でまず正しく発音できる文字列で構成されている」ことはきわめて重要なことであると考える。

 キラキラネームを子供につけた母親が「うちの子の名前はまず絶対に読めません。でも『なんて読むの』と聞いてやって下さい。『お母さんが図書館に行って必死になって考えてくれたんだよ』と誇らしく言うでしょう。」と投書したことがある。なるほど、個性を大事にしたいとの思いは大切にしたいと思うのだが、しかし、この子はやがて30歳、40歳という壮年になって社会で働かなければならないのだ。

 この歳になっても、初めて会う人ごとに必ず自分の名前の読み方を解説しなければならないことは、かわいい我が子に大きなハンディを与えていることにならないか。戦後教育の「人は個性的でなければならない」との圧迫がこうした現象を生んだのである。「個性的である」ことを子供に強要してはならないし、個性は名前から生まれるものでは決してないのだ。

 ⑤わが国は、小さなズル(狡)にはもともと寛容な国柄であった。駅前放置自転車はその典型である。「車を放置すれば皆に大変な迷惑をかけるだろうが、通勤や通学のための自転車を置くくらいなら誰にもほとんど不便を与えないだろう」という考えを批判したことがあるが、公共サイドが駐輪場を作らないからだとお叱りを受けたことがある。

 なるほど一台の自転車なら大混雑は起こさないだろうが、「では私も」となって数十台となると大迷惑だ。「私の一台くらいは許してもらえるのだ」は、マンション前の自転車集結となって歩行の妨げを生んでいるし、「私の空き缶一つくらいは」は、幹線道路の交差点などの中央分離帯の空き缶の山となって、大いに美観を損ねている。

 東京周辺の山地では、公園などに指定されているところは別として、それ以外では産業廃棄物の集結地となっているし、使えなくなった家電製品の集合地ともなっている。「私が少しだけ捨ててもいいでしょう」が環境を破壊しているが、この傾向は年々酷くなっている。

 ⑥NHKが西欧の都市を中心に街歩き番組を作っている。先般はバルセロナだったが、ここでも大きな驚きは「街中にポイ捨てのゴミがまずない」ことである。西欧都市の街中を歩くこの番組をよく視聴しているが、どの都市でも落書きの多さとゴミのなさに驚くのだ。

 渋谷や新宿などの人通りの多いところでは、休日の夕方ともなると「ゴミの中を人が歩いている」状態になるのと大違いなのだ。日本人は「美に敏、醜に鈍」というが、これは公徳心のなさとも共同体意識のなさともいえるし、先の「私の小さなゴミくらいは」という甘えの思想ともいえるのだが、何にしても「世界の恥さらし」的な光景である。

 こうした事柄の羅列で「日本人論」とすることには異論も多いだろうが、経済的転落に加えてこうした現象の多発は、この国の行く末に大きな不安の影を落としている。

(月刊『時評』2022年11月号掲載)