
2026/09/02
多言なれば数々(しばしば)窮す(老子)
――人は、あまりしゃべり過ぎると、いろいろの行きづまりを生じて、困ったことになる。
「日本は天皇とともにある国」と言えば、戦後民主国家となり、1946年1月1日に「天皇神格否定」(通称「人間宣言」)の詔書が出され、11月3日には現行の日本国憲法が公布されたという歴史を振り返ると、何を言いたいのかと訝しく思う人もいるだろう。
しかし、日本を完全に解体し、ガタガタにしなけばならないとの強い意志を持ってやってきたGHQが、憲法に象徴天皇を書かざるを得なかったことに思いを致す必要がある。
アメリカの有力紙であるニューヨーク・タイムズが戦後、ドイツに対しては「ドイツはナチスにより誤りを犯したが、この優秀な国民は立ち上がるだろう。われわれは、これを応援しなければならない」と書いたのに対し、日本に対しては「この醜い化け物は倒れはしたが、まだ生きている。われわれは、これを解体しなければならない」と記したことは、われわれ日本人は忘れるべきではない(石原慎太郎氏による)。
また、日本敗戦当時にアメリカ大統領だったトルーマンは、日本の敗北を先延ばしにさせながら、ドイツ敗戦後の夏に、日本への投下を念頭に原子爆弾を完成させたことは忘れることができない歴史的事実である。
そのアメリカが、国民統合の象徴として天皇を規定せざるを得なかった事実は極めて重いと考えなければならないのだ。その重みを考えるために、このまま天皇系譜を追った物語を記述するだけではなく、過去を否定することで成り立っている他国の建国物語を考えてみたいのである。そして、われわれがそのような過去を持たない国の民であることも。
世界の中で、唯一歴史的連続性や継続性がこの国を成り立たせてきたことは、他国との著しい違いであることを、他国との比較で理解しておかなければならない。戦後の占領政策によって皇族数を大きく減少させられ「男系による一本の系譜」の存続に危機感があるから、最近の与野党からも皇族数の確保について、多面的な議論が重ねられてきた。
イギリスやオランダなどにも、国民から広く支持され、敬愛されて継続してきている王室の歴史があるが、二千年もの歴史を語れる国は日本以外には存在しない。加えて極めて重要なことなのに語る人がほとんどいないのだが、「日本は戦い取った国家」ではないのである。そして、そのことはわれわれは「始まりを祝う」ことが困難な国に住まいしているということを意味している。
それは国歌の内容に象徴されている。アメリカ、フランス、イギリス、中国の国歌では戦争が歌われ、それに勝利して今日に至っているという内容なのだが、日本の国歌は「この国が永遠に続きゆくこと」だけを祈る内容となっている。
オリンピックなどで優勝国の国歌が流れることはよくあるのだが、その歌詞が紹介されることはほとんどない。ところが、先般の世界大会で「りくりゅう」ペアが優勝した時に国歌の歌詞も掲示され、世界の人々は、日本国歌の内容に大変驚いたと盛んに報道されたのだ。「戦いを語らず、平和が永遠に続きゆくこと」だけを祈るように歌う国歌など、まず他国にはないからである。
アメリカは、1776年に先行13州がイギリスと独立を賭けて戦って勝利したことで「アメリカ合衆国」が誕生した。アメリカ人は今もこのことを大切にして「勝ち取ったアメリカの精神」を維持していくことを国民の誇りとして継いでいくことを誓うのである。
イギリスは、約1200年以上もの長い王朝の国だが、「王朝の移り変わりと政治の変化の歴史」を持つ国と言われる。1066年、ウィリアム1世がフランスのノルマンディーから侵攻しイングランド王になるというノルマン征服が起こり、以降、今日の王室につながる歴史が刻まれてきた。
こうした明確な「始まりを持つ」のはアメリカやイギリスだけのことではなく、5000年の歴史を誇るという中国の、共産党政権も前政権の完全な否定と断絶の上に成立した「始まりの明確な国」であるし、それはフランスもロシアも同様なのだ。
男系一系の系譜、これは歴史家からもいろいろ指摘があるところだが、これが初代から途切れることなく連綿と継続してきたとの「事実と信仰」がわが国の基礎を構成しており、それが始まりを持たない国であることを悲しんだりすることなく、われわれ日本人を支えているのである。
明治を迎えて新しい政治が始まったが、ここでも「天皇とともに続きゆく国」との精神は引き継がれたし、戦後のGHQによる日本支配に際しても、国民の統合の象徴として天皇を明記せざるを得なかったのである。
われわれは過去に女性天皇を8人(重祚があって10代)お迎えしてきたが、それは先輩たちの男系の一系を守り抜くための先輩たちの工夫の跡だったのだ。そして、これがわれわれの歴史なのだという認識が必要なのである。
最後の女帝は江戸時代末期の後桜町帝(117代)だったが、この後桜町帝の父・桜町帝(115代)の男子が桃園帝(116代)となったのだが21歳で早世し、その子供は4歳であったから後に後桃園帝(118代)として継ぐまでの間、後桜町女帝が即位したのだった。そして後桃園帝は成人し帝位についたのだが、21歳で亡くなってしまったのだ。子どもが内親王で後継探しは容易ならざることになった。次の119代は閑院宮系の光格天皇になったのだが、それは後桃園帝からは、父の、その父の、さらに、その上の父の兄弟の子供の、子供=光格天皇(119代)という巡りとなったのだった。
この光格天皇が明治天皇の「ひいおじいさん」で、ここからまたわかりやすい一系の系譜が続くことになったのだった。
国母とまで言われた最後の女帝・後桜町帝から光格天皇までの経緯を紹介してきたのは、われわれの国の一系の系譜、それはつまり日本国存続の精神なのだが、これを守り抜く過去の人々の努力の歴史を、今のわれわれこそが認識する必要があると考えるからである。
(月刊『時評』2026年8月号掲載)