
2026/11/02
多言なれば数々(しばしば)窮す(老子)
――人は、あまりしゃべり過ぎると、いろいろの行きづまりを生じて、困ったことになる。
熊本で10年前に経験したばかりだというのに、再び大地震を経験してしまった。今回は熱中症におびえなければならない猛暑下での、救援復旧活動と避難生活を強要されるという悲惨な状況が生まれた。また、千葉や石川などでの短時間豪雨により多くの生活が破壊された。
幸い全国の各地から応援の手が差し伸べられているし、各行政機関からの支援も活発に動いている。ところが、被災者には、発災直後から毎日の安定した食事と安眠は欠かせないのだが、それが十分なものなのか、大いに不安なのだ。
これを言うのは、近年の大災害時でも、体育館の板の間に、厚みも十分でない敷物を敷き、家族単位どころか、家族や女性のプライバシーも保持できない環境に避難者が閉じ込められるように収容されてきた実績があるからなのだ。
東日本大震災時にたまたま戦前の、つまり80年以上前の日本の災害避難所の様子が紹介されていたが、それは現在の避難所とまったく同じ「大人数の雑魚寝風景」で、つまり「日本の避難所は過去100年もの間、何も進化してこなかった」ことを示していたのだ。
国土に地震発生の原因となるプレート境界を四つも抱えている国は日本以外にはないから、日本の国土面積は世界の陸地面積の0・25%しかないのに、世界の地震の約10%が日本の国土上で発生し、なんと悲しいことにマグニチュード6以上の大地震となると、全世界の約20%もが、この狭い日本国土上で発生しているのである。このため日本は「面積当たりでいえば、世界平均の80倍もの大地震の発生確率を持つ」ことになっている。
ということは、大地震発生に伴う諸対策は日常の中に埋め込まれておらなければならないということになる。避難者の発生と当座の生活の維持への対応は日本の「社会システム」が常備しておかなければならないということなのだ。
近代社会が、上下水道システムや電力供給システムを欠かすことができないのと同様に、日本という各種災害頻発国が常備しておかなければならない「発災後システム」があるのだ。それは「アメリカにもない、ドイツにもない」から「日本もいらない」のではなく、「日本という大災害頻発国だからこその常備品」と考えなければならないものなのである。
日本は孤島とでもいうべき国土を持つから、難民が押し寄せてきたという経験は持っていない。ところがヨーロッパやアメリカには、国土の位置や地形という理由に加え、移民への寛容性などから特に近年大量の難民が押し寄せてきた。
1994年のルワンダ虐殺などを踏まえ、国際赤十字は難民支援の基準を「被災者の権利と支援活動の最低基準」として定め、それを地球をもじって「スフィア基準」と名付けた。これは二つの理念から構成され、それは「①災害や紛争の影響を受けた人々には、尊厳ある生活を営む権利があり、支援を受ける権利がある」というものと「②災害や紛争による苦痛を軽減するために、実行可能なあらゆる手段が尽くされなければならない」というものである。
そのわかりやすい避難基準を示すと、「①水道蛇口は250人に1つ、②トイレは20人に最低1つ、③トイレの男女比は、男性1女性3、④1人当たりの居住スペースは、最低3・5平方メートル」などとなっている。
このスフィア基準がすべての難民避難所で十分に機能しているなどと断言するつもりもないが、少なくとも、国際社会は「その国に税を納めたこともない他国からの難民」を救うための国際基準を作って順守していこうという基準を明確化して、その方向で努力していこうとしているのである。
日本でも、内閣府が「避難所運営に関してスフィア基準を紹介した」ことなどは、あるようなのだが、被災者の尊厳ある生活など、全くと言っていいほど実現してはいない。
東日本大震災では、高齢女性がトイレのために畑に行き転倒し、そのまま低体温症で死亡した、公園に設置の仮設トイレは4時間待ちだった、震災から2カ月もたったのに女性更衣室もなかったために汚れたトイレで着替えを余儀なくされた、冷えたおにぎりや弁当の支給しかなかった、高齢女性が睡眠不足などで急性心筋梗塞のため死亡した、などの事例が続出した。能登半島地震では、発災から10日後にダンボールベッドの導入が決まったものの、実際の到着は3週間後であった、10年前の熊本地震ではアレルギー対応食がなかったなどの問題が指摘されてきた。
政府がスフィア基準を紹介しても実施されなければ被災者は救われない。「冷暖房の必置、スペース分のダンボールベッドの備蓄、医務室と暖かい食事のための調理室の設置」という体育館(廃校利用も可)の避難所化改築を、国の責務として急ぐべきと考える。避難所の新設は、利用頻度や建設費や維持管理から見ても現実的ではないからである。
大勢の被災者が発生した近年の大地震を並べてみても、1995年阪神淡路大地震、2011年東日本大地震、2016年熊本地震、2024年能登半島地震、2026年熊本地震と相次いでおり、今後もこの程度の頻度で震度7級以上の地震の発生を覚悟しなければならないのだが、ということは、今後も大量の災害避難民の発生に備えなければならないということなのだ。その用意への決意が日本の行政や政治家にまったくないのではないか。
日本国憲法は、その前文に政治家の責務を規定し、「政治の結果、国民に福利がもたらされる」と示している。したがって、政治家はその施策の結果、国民に福利をもたらすことができるかを考えるのが仕事だと憲法は記しているのだ。被災民の救済は国政の責務なのだ。
ところが、エンゲル係数が28・6(2025年)とかつてなく上昇して、家計が四苦八苦しているのに、食費の税負担の軽減に「財源はどこにあるのか」と叫んでいるばかり。一般会計税収は2026年見込みは83・7兆円に達し、2020年の60・8兆円から23兆円も伸びているのだ。
政治家が何をなすべきかを語らずに財源は何だと叫んでいるだけでは、少なくとも国政政治家の存在は不要だ、財源はまずは彼らに費やしている国民負担だと見透かされる時が必ず来るだろう。日本ほど、国政政治家のために税負担をしている国はないからである。
(月刊『時評』2026年10月号掲載)