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俵孝太郎「一戦後人の発想」【第113回】

真剣に取り組め コロナ下の財政~国民の税金は湯水ではない 国債は返済が不可欠な借金 節度なき放漫財政には限界~

 コロナ禍における超愚策により国の借金はさらに増え、日本の財政はより厳しさを増している。マスコミによる効果や財源の検証は絶無。そこで知見も踏まえ、5ケ条からなる反時代的政策論的感想を列挙したい。

バラ撒いた総額はいずれ返済

 「特別定額給付金」と称する、国民1人当たり、貧しき者も富める者も、病める者も健やかなる者も、無条件・一律に現金10万円をバラ撒く、という暴挙が敢行されて、ほぼ1年が経過した4月30日、財務省は、その給付状況の最終的な集計を公表した。

 それによると、給付額つまりバラ撒いた現金は、総額12兆6700億円。全額が税金か、いずれ税金で償還すなわち返済しなければならない、国債という名の国の借金が化けたカネだ。予算は12兆7100億円を見込んでいたが、実際はそれに較べて400億円少なく、予算消化率は99・7%だった。

 バラ撒きの対象は、2020年4月27日に全国の区市町村のどこかに住民票を置いていた者だ。不法入国・滞在者は原則的に入らないだろうが、住民登録してあれば、国籍は必ずしも問われなかったようだ。区市町村ごとに世帯単位で一括給付する方式で、給付金を受け取った世帯数は5915万。想定世帯数の99・4%だった。

 この超愚策の予算は、事務経費を含め12兆8800億円が計上されていた。給付費予算との差額1700億円は事務経費で、そのうち180億円が使われずに残った。給付費のうち浮いた400億円は、住民票所在地の区市町村からの給付手続き通知を無視して、受け取りを拒否あるいは辞退したケース。区市町村役場が受給者と連絡がつかず、給付しようがなかった場合。さまざまな理由・事情、心情や信念があったはずだが、それらはすべて精査されることなく「不用額」と銘打たれて、国会が決算を承認した次年度の予算編成の際、事務費の残金180億円とともに、財源の一部に繰り込まれる規定だ。

 給付の検証には、なぜ「不用額」が生じたのかを追求する考え方はない。ここには個々人の動静実態や生活信条、それぞれの生活のあり方や意識の持ち方が籠められているはずで、見方・使い方によっては、多様な問題提起につながる無数の情報・国民の声として、現状分析にも将来の施策立案の参考にも、なり得たに違いない。しかしそれらはビッグデータ分析の時代にもかかわらず素通りされ、捨て去られ、札ビラが風に舞って虚空遥か散り散りに飛ぶように雲散霧消してしまった。

わずか40万人という実態

 この結末をどう見るか。多くの読者はご記憶と思うが、筆者は1年前の本誌で、この超愚策を強く批判したうえで、自分は不羈独立の自由な言論人としてこんな給付金は断じて受けない、と旗幟を鮮明にしていた。そして愚妻ともども、その通り実行した。

 このとき筆者は、言論・報道や、まして政治・行政に責任ある立場で関わる存在はいうに及ばず、自由経済の使徒である大中の企業経営者や少なくともその役員・管理職社員、小なりといえども独立自営の業者、さらに自立した人格としての気概を持つ個人は、こともあろうに税金が変異したかかる意味不明な目腐れ金を政府から受け取る道理はない、と受給を拒否するに違いないと考えていた。少なくとも日本人の1割は受け取らないだろう、と書いた気がする。それも控えめな表現に止めた見積もりで、腹の中では、2割くらいはいても不思議はない、と踏んでいた。

 それが12兆6700億円が支出され「不用額」はたった400億円だったという。1人一律10万円給付だから、受け取らなかった者は40万人に過ぎない、という冷厳な実態が露呈されている。これには筆者は心底、驚いた。バブル崩壊=リーマン・ショック後の〝平成の長期停滞の30年〟に、時代の寵児として登場したIT屋を典型として、カネ万能の索漠たる世情がより色濃くなったことは、承知している。それにしても最近の日本人の劣化はここまできたか、と長嘆息したことを、白状しないわけにはいかない。

非受給世帯を引くとより深刻

 1億2600万の人口に対する40万人は0・3%、1000人中3人だ。その中には閣議で受給辞退を申し合わせた当時の安倍内閣の閣僚、党議で返上を決めた自民党所属国会議員全員が入っていることは、まず間違いない。公明党は1人の閣僚以外、どうしたのかわからない。一応は受け取るが、全額をコロナ禍で困窮する人たちのため有効に使う、と称していた立憲民主党も、ヘタな使い方すれば総選挙が近いこの時期だ。選挙違反の買収に問われかねない。こう思い直して、キレイ事をぶった舌の根も乾かぬうちに、ずるずる自分の活動費や生活費に費消してしまった国会議員が、いたに違いない。他の野党も似たようなものだったのではないか。

 ふらりと国内・海外に放浪に出たまま行方知らずになった風来坊。借金取りから逃げた多重債務者。指名手配され行方をくらました犯罪者。住民登録上は生存しているが実は孤独死しているケース。こうした、本人の代わりに受け取る資格がある、世帯を共にする相手がいない単身世帯も、少なからずあるはずだ。非受給額が0・3%なのに、非受給世帯数が0・6%だったという、前記の財務省統計から察するに、筆者宅のように世帯全員が揃って受給を拒否した例もあったろうが、非受給額0・3%と非受給世帯0・6%との差の0・3%分、35万世帯の大半は、区市町村の支給手続き通知が相手に届かなかったケースだったと推測できる。それなら40万人の非受給者マイナス35万弱の行方不明の単身者と思われる非受給世帯、と計算して、矜持を持って10万円バラ撒きを拒否ないし辞退したのは、日本に5万人そこそこだった、という悲惨な状況も考えられることになる。

 前稿でも紹介したように、福澤諭吉『学問のすすめ』の核心は、「一身独立して一国独立す」「独立の気力なき者は、国を思うこと深切ならず」だ。どんな名目と形式であれ、独立した個人として国家公共から金銭的援助を受けることは、信念と矜持の問題としてできない、と考え行動した市井の硬骨漢は、多くて1000人に3人は愚か2人、ひょっとすると1人、それどころか1億2600万国民のうち僅か5万人だったかもしれない。こう思うと、1万円札の表から福澤が消えて渋澤栄一にとって代わるのは、渋澤にはとんだ飛ばっちりに違いないが、日本の〝福〟の時代が終わって、これからは〝渋〟い世の中になる、という暗示なのかもしれない。

妥当な案が超愚策案に変容

 冗談はさておき、100年昔の〝スペイン風邪〟に匹敵する〝武漢ウイルス〟のパンデミックで、自分の責任ではない事情で生活困難に陥った人たち。特に、明日から出勤に及ばず、と突然〝雇い止め〟に遭った非正規勤労者。多くの人に昼夜つましい食事を提供してきて出勤抑制で常連客が減ったため店が回らなくなった町の食堂主。こうした実直な生活者に向けて、生活・営業を支援する政策が実施されるのに反対する声はあるまい。コロナ禍が人々の暮らしを隅々まで脅かしてはじめて、いままで気づかなかった不明を恥じざるを得ない状況で問題化したヤングケアラーに向けては、健気さ・尽力に対して遅ればせながら一定の顕彰措置を講じたうえで、今後の生活・学業の両面に対する手厚い支援を、国が予算化し区市町村を通じて漏れなく実施することに賛成しない国民もいないだろう。

 そうした政策論的文脈に立てば、当時の岸田文雄自民党政調会長が打ち出した、困窮家庭・業者に現金30万円を給付する案は、急ぎながらも厳正に審査し、詐欺的な請求は断じて許さないという、行政行為として当然の前提をつければ、妥当な考え方だった。

 しかしこの案に、国民1人当たり審査・考慮抜きに一律10万円を給付する、と唱えていた公明党が強く反発し、山口那津男代表が総理官邸に出向き、当時の安倍晋三首相に、岸田案を採用するなら連立与党からの離脱も辞さない、と申し入れた。安倍は、これを軽く受け流したらしい。出ていきたければどうぞ、といわんばかりの対応に青くなった山口は、官邸を出た足で自民党本部に駆け込み、同様の総バラ撒き構想を示していた二階俊博幹事長に泣きついた。そして2人連れ立って官邸にとって返し、改めて安倍に要請、というより泣訴哀願した。根負けした安倍が折れたのが、この超愚策実現の裏事情らしい。

 このころ公明党唯一の、しかし超強力な支援組織である創価学会は、大阪で持つべくして持っていなかった豪華な会員用の集会施設を、買い取っている。戦前の大実業家の大邸宅から転じて、長く大阪名所になっていた市中央の施設で、大庭園ぐるみという。大阪は公明党の前身である政治団体が、はじめて参議院地方区(当時)の補欠選挙で国会に議席を得た土地で、その後も国政・地方政治すべての選挙で一貫して金城湯池としてきた。しかしここ10年ほどは、創価学会員の高齢化に伴う固定票の急激な減少と、維新の会の台頭を受け、巻き返しを迫られる情況だった。

 新しい会館は、当然ながら各種選挙で強力な拠点になるはずだ。巨額の資金を要する会館買収と総バラ撒き施策を掲げたタイミングのよさ、山口代表の粘り腰の強さに、1人当たり一律10万円の給付は、このための寄進の原資を調達する手段として、創価学会から強く求められたせいではないか、という外野席の勘ぐりが、地元では乱れ飛んだという。

堤防の最初の決壊個所に

 その真偽はさておき、筆者にはこの「特別給付金」という超愚策が、アリの一穴というには余りにも巨大な、放漫財政の大洪水を引き起こす堤防の最初の決壊場所になった、という印象が強い。いったん120万円という大金を浪費すれば、10万、5万の支出に、そんなに強い抵抗感はなくなるだろう。まして1万、2万は、ものの数でなくなる。万が兆の単位になってもその心理が共通なのか、知らないが、個人が支出するカネの単位は普通は〝万〟でも、国の予算なら〝億〟が最小単位で、〝兆〟でも不思議はない。

 「特別給付金」が誘い水となり、雇用主としての企業を対象とする雇用調整助成金をはじめ、さまざまな事情に応じた企業・個人に対する、国や地方の財政資金を億兆単位で湯水のように使った〝支援金〟。営業時間の短縮要請などに応じた〝補償金〟。あげくの果ては〝せっかく大学に入ったのにコロナのせいで思う存分遊べずつまらない〟と見当違いも甚だしいボヤキを口走る若者向けの、阿呆くさい〝就学支援〟。など、思いつく限りの財政支出を伴う〝施策〟の横行になった。

 個々の〝施策〟がどのような仕組みでどうバラ撒かれているか。それぞれの財源構造がどうなっているか。個々の事情は、報道現場を離れて久しい90翁の筆者は知らない。テレビの〝情報番組〟の〝ニュース芸人〟は、よこせ、やっと出た、遅い、少ない、とブー垂れるだけだし、新聞を広げても、どの事案にこの給付が決まった、という記事はあっても効果や財源の検証は絶無。言いっ放しだ。

5ケ条の反時代的政策論的感想

 そこで田中角栄が初めて大蔵大臣になったときの財政記者で、フリーになってからも竹下内閣初期から菅(スガじゃない、カンだ)内閣の当初まで、15の内閣で20年余にわたって財政制度審議会の委員・専門委員を務め、財政構造改革にも関わってきた知見も踏まえつつ、反時代的政策論的感想を5ケ条、書き留めておきたい。

 まず第1に、コロナ禍という〝国難〟に際し、財政資金を投入した支援や公租公課の緊急・時限的な納付延期・減免措置など必要な施策が取られるのは、当然だ。だがそれは、あくまで対象を見極め、節度を持ち、厳重な受給要件を定めてピンポイントで実施すべきで、一律現金バラ撒きなど、あってはならない。ましてその再現など断じて許されない。

 非常時には非常時の生き方・暮らし方がある。われわれ欠乏に耐えた戦時下の銃後の少年、そして敗戦国民として焼土に残る〝戦災遺構〟の防空壕を利用した辛うじて雨露を凌ぐバラックに生きた世代は、それを切実に体験した。極限までのつましさと徹底した奮闘努力は、日本の世界に誇る国民性であって、だからこそ明治功業も、敗戦から復活した世界第2位の経済大国も、達成できたのだ。

 〝国難〟のいま、それができない道理はない。にもかかわらず、国民一律10万円の現金バラ撒きという超愚劣な〝施策〟に対し、真正面から論難・批判する言論が、新聞、NHKを含むテレビ、週刊・月刊の雑誌、さらに〝学者の国会〟を自称する日本学術会議以下の学術団体の、どこからも出てこないのは醜態だ。恥を知れ、襟を正せ、といいたい。

規範違反には法律を適用した処罰を

 第2に、典型的な例では〝路上呑み〟が示す問題だ。テレビの〝ニュース芸人〟は、意図的に集めたVTRに被せて、生活苦を訴える声、政府の対応を非難する声を並べ立てると思うと、スイッチひとつで画面を切り替えて、盛り場や行楽地の混雑、そこで繰り広げられる消費や遊興を、なんの批判的視線もない世相スケッチとして、垂れ流す。路上呑みという、この状況下で公衆衛生に重大な悪影響を及ぼすことが明白な、ミニ・テロ行為というべき愚行を、口先では批判しても、本心では興味本位・面白半分、刺激性の強い時の話題、視聴率稼ぎの材料にしている。こうしたあり方は〝報道・表現の自由〟とは無縁で断じて許されない。許すべきでもない。

 バブル前、高度成長の頂点のころ、首都圏や京阪神・北九州などの盛り場を抱える警察署には、〝トラ箱〟と呼ばれる場所があった。路上で酔い潰れたトラつまり泥酔者を連れてきて、日ごろ警邏巡査の朝礼や〝教養〟と呼ぶ実務講習で使う講堂や大会議室に、番人の警官を複数つけてアタマが冷えるまで放り込んで置く場所だ。トラを連行する理由は、迷惑防止、交通安全、本人保護、いろいろあるが、ケンカなら現行犯逮捕だし、一応歩ければ説諭して帰宅させる。留置場以下、帰宅以上の酔っ払いに対する行政措置が〝トラ箱入り〟で、一定の制裁的効果もあった。

 1970年代から80年代の話だ。敗戦憲法下、内務省解体にはじまる、占領軍が意図した日本の内政弱体化策で、明治以降の高い公衆衛生・治安維持水準が破壊されたこととは関係のない、現行憲法下の話だ。占領軍が憲法から意図的に欠落させた戒厳措置や、それに準ずる非常時法制が前提のロックダウン=都市封鎖などとは違い、あのころできたことが現在できない道理はない。偏向マスコミや左翼野党がなんといおうと、〝箱〟の中の〝密集〟を避ける一定の配慮は必要だとしても、これくらいのことに躊躇するようでは、国難に処する社会秩序の維持などできない。これはホンの一例で、コロナ陽性者の移動の際の公共交通機関利用禁止の違反。指定された自主隔離場所からの脱走や外出。飲酒禁止の店への酒類の持ち込み。街頭での放歌高吟。こういった確信的・挑戦的な規範違反には、警察力による取り締まり、法律・条例を適用した処罰を、ためらうべきでない。

 そのためには、毅然とした姿勢なしにパンデミック制圧は不可能、という社会的合意の形成が必要だ。国民の共有資産である電波を私的に預かり商業利用しているテレビが、その中心的推進力になることが求められるが、さて、どんなものか。内部に潜む偏向分子の抵抗で彼らが社会的責任を果たさなければ、停波処分も辞すべきではない。少なくとも次期事業免許更新の重要審査基準にすべきだ。

濃淡の別や仕分けも重要

 第3に、〝国難〟下の援護対象は社会的弱者以外に広げて当然だが、それでも濃淡はあるべきだ。医療従事者はもちろんエッセンシャル・ワーカー、公共インフラ業種従事者などに対する、危険手当に相当する付加給与や、労働法の規定を超えるやむをえない長時間労働の合理的な限度設定と特例的割増賃金に対する公的支援措置など、必須のケースも多いが、医療従事者にもコロナ対応もいれば非対応もいる。あらゆる勤労・業務に存在する献身者と普通業務者の一線は、厳格に引かれるべきだ。便乗給付などの不正行為があれば、各種助成金の不正受給と同様に、犯情によっては詐欺罪の適用も躊躇すべきでない。

 同じ給付でも、財政で負担すべきものと、社会保険で処理すべきものの、仕分けも重要だ。漫然と国庫からカネを出せばいいものではない。保険財政から賄うのが本筋なら当然保険が担うべきで、大量給付のため積立金が枯渇すれば、財政資金の貸付で凌ぎ、コロナ収束後に時間をかけて国庫に回収すべきだ。前年度末で1216・5兆円。GDPの2年分を超えた国の累積債務は極めて重い。財政規律は重大な国民的関心事なのだ。

 一概に勤労というが、英語ならレーバー・ワーク・プロフェッションの別があり、ドイツ語にはアルバイト・ヴェルク・ベルーフの別がある。財政による減収支援はレーバー、アルバイト、すなわち現場労働に限るべきであって、少なくともプロフェッション、ベルーフ、つまり使命職者・天職者に対する公金による支援は、彼らに対する非礼、と心得るべきだ。経営者や自営業主も同様で、地位と責任に応じて自ら負うべき責任を担う行為に対しては国家公共に費用負担を求めない、という職業倫理を、彼らに貫徹させるべきだ。

 飲食業といっても、社会インフラとしての飲食業もあれば、遊興・風俗業としての飲食業もある。前者には過去の税務申告が示す収益の実態に応じた減収補填・休業補償は必要だが、遊興・風俗業に公的支援は甚だ馴染まない。借金で小じゃれたバーを開いた〝起業家〟が、コロナで客足が途絶えて家賃が払えなくなっても、手堅さに欠ける道楽開業の報いだ。税金で支える対象ではないだろう。

 路上呑みのあげくコロナに感染した者を、感染拡大防止のためにホテルに収容して、宿泊費や食費を公費で負担するのも、釈然としない。隔離・収容は公衆衛生上必要だが、自業自得の尻拭いに国民の税金を出す筋合いもない。不慮の感染者と不心得な感染者は、処遇・負担を区別して考えるべきではないかに。

財政の回復は長期的に、そして限界の宣言を

 第4に、いつの日か、さしものコロナ禍も収束に向かうだろうが、毀損された税財政構造の修復は、急務ではあるが、無理に急ぐべきではないし、そもそもそう早期には解決できまい。まずプライマリー・バランスの回復路線に戻るべきで、累積赤字の解消は長期的視野に立って、細心の配慮のもとで、進めていくべきだ。国際社会で合意が成立するやに見える法人税の引き上げも、すべての企業が事実上国営か軍の直営で経営に透明性のない中国だけが、国際競争で有利になってしまう虞れがある。そうなっては話にならない。

 安易な消費税、まして相続税の増徴などには、手を出すべきではない、租税回避的な財団化・持ち株会社化や、タックスヘヴンへの資産逃避などには、国際的な協同歩調を前提として、課税を強化すべきだろう。

 そして第5に、ワクチンが追いつけない新型変異株を次々生み出すコロナ禍への対処で財政が逼迫し、将来に償還の重荷を残す国債の新規発行も限界に達した、と見極めた時点で、国に宣言すべきことがあるという点だ。

 通常の社会保障・生活援護・社会保険の水準は、国の責任として維持するが、臨時的・特例的な公的給付や補償は、もうできない。将来の国家国民、すなわち若い世代と、これから生まれてくるコロナと無関係の世代に、国債という名のわれわれの世代の借金返済の苦しみを背負わせるのは、限界だ。こんごは事業者と国民、それぞれが自らの判断と責任で最善と思われる経営・行動をしてほしい、と政府も地方行政も、明確に訴えるべきだ。

 テレビで連日国民の不安を煽り、どうかと思う厳しい規制を強要する反面で、選挙に備えた支持基盤の培養かと疑われる〝補償〟バラ撒きを公約し、テレビ世論を味方に国に財源を求める一部首長の流儀は、通用させるべきでない。国もそんな要求は黙殺すべきだ。

 その段階になってコロナとの戦いは、はじめて国民的な課題になるのではないか。

(月刊『時評』2021年7月号掲載)