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俵孝太郎「一戦後人の発想」【第120回】

結党100年 日本共産党の黄昏 一方には軍事圧制・国家独占資本国の横行、家元はすでに連邦崩壊・雲散霧消

 実質としては戦後から活動を開始したものの、今年結党満100年を迎えた日本共産党は、本家本元がむしろ短命で崩壊したり、もはや国家独占資本主義の権化と化した近隣国に比べると、未だ革命の夢を追っているぶん、いじらしいとさえ言える。

凹凸際立つ各国の百年

 1922=大正11年に結成された日本共産党は今夏、結党満100年を迎える。

 ソビエト社会主義共和国連邦が新しい国家として成立したのが1922年の暮だから、日共のほうがちょっとだけ兄貴分ということになる。そんなことをいえば、中国共産党は日共よりさらに1年早い1921年の結党で、昨年秋に100年の節目を迎えている。

 日共、ロシア共産党とソ連邦、そして中共と中華人民共和国、それぞれの100年を並べて見ると、まことに凹凸が際立っていて面白い。共産主義という〝思想〟、共産党という〝組織〟、そして共産主義国という〝権力構造〟、その建前と正体の間に実在する巨大な落差が、はっきり見えてくる。

 いうまでもないが、それぞれの党や国家の元祖がどこか、というたぐいの話ではない。1914年にカイゼル・ヴィルヘルム二世のドイツ帝国がツァーリ・ニコライ二世の帝政ロシアに戦争を吹っかけ、対独警戒心からかねてロシアと同盟を結んでいたフランス・イギリスが直ちにロシアに加担して参戦。ハンガリー・ブルガリア・トルコがドイツ側について、第1次世界大戦になった。

 そのドサクサに紛れて、1903年にロシアの反体制政党・社会民主労働党が分裂して生まれた多数派のボリシェヴィキと少数派のメンシェヴィキのうち、前者の頭目でスイスに逃亡していた、もともとは落ちぶれロシア貴族の末裔レーニンが、当初はスイスから遠隔操作して母国の反帝政革命を扇動した。そのうえでツァーリ体制がカイゼル・ドイツに叩きのめされて崩壊に瀕したのを見極め、1917年4月に帰国。まず9月に保守派のケレンスキーを傀儡首相に担いでロシアの共和国化を宣言。しかし、1年たたぬうちに取って代わって国家権力を完全掌握した。さらにそれを足掛かりに中央アジアからシベリアに至る、帝政下で領土に繰り入れてはいたが、実態は化外の辺境の地として放置してきた地域に手を伸ばし、新国家の大国化を図った。それに加えて、前世紀半ばにマルクス、エンゲルスらが思いつき、その後にカウツキーらが継承したものの構想倒れになっていた、世界各国に共産主義政党のネットワークを構築し、司令塔になる党が全体を操って世界同時革命を達成する、という共産主義インターナショナル構想を再起動させ、1919年3月、ロシア共産党ボリシェヴィキを司令部とする、第3インターナショナル(コミンテルン)を発足させた。

実質的な党史は戦後から

 中共も日共も、それぞれ国内に一定規模の社会主義者・無政府主義者・共産主義者のグループが雑然と混在していたものの、まだ政党組織といえる状態にまではなっていなかった。そうした中で、それぞれの国の共産主義分子が、コミンテルンの呼び掛けに応じ、コミンテルン中国支部・コミンテルン日本支部の位置づけで、〝開業免許〟というか、店開きのお墨つきを得て体裁を取り繕い、世界規模の大政党の一角を名乗ったわけだ。

 ただし日共は、結党直後の関東大震災で活動開始どころではなくなったうえに、1928=昭和3年の3・15、翌年の4・16の大弾圧で、名ばかりの段階だった党組織の幹部が根こそぎ治安維持法違反で逮捕されてしまう。その結果ごく少数の〝有志〟が密かに〝読書会〟などを細々と続けたのを別とすれば、結党時党員が徳田球一・志賀義雄の〝獄中16年組〟、やや入党が遅れた党員も宮本顕治の〝12年の妻百合子への獄中書簡〟という形で、牢獄にだけ存在する状態になり、1945=昭和20年の敗戦に至った。

 したがって実質的な日共党史は、敗戦日本を占領支配したマッカーサー司令部の〝思想犯の一斉解放指令〟から始まったといっても、まったく過言ではない。

山賊の割拠から毛沢東の制圧まで

 近代の中国は、漢族の土地であるシナ大陸に、異民族である満州族が北方から進出し、清と名乗って王朝を建てて支配していた。その清朝がたまたま帝政ロシアが崩壊するのと同時平行的に、長年の失政・腐敗の果て、日本との戦争の敗北が決定的要因となって崩壊する。それを受けて1912年に、日本に留学中に共産主義的革命思想を学んだ漢族の孫文が、1914年に東京で中華革命党を結成し、17年には帰国して大元帥を自称して国民党と改名した党を率いて、大陸各地で多発している党派間軍事抗争に参入。中華民国の成立を表明して、自ら大統領を名乗る。

 孫文一派だけでなく、先に結党した中国共産党も武装集団化していて、地域軍閥といえば聞こえがいいが、漢族の武装山賊集団が、共産党を含め己れの縄張りを固めて割拠し、勢力圏の拡大抗争に耽っていた。当時のシナに統一した国家体制が存在するとは、お世辞にもいえない状態だったのだ。

 孫文死後に国民党を引き継ぎ、中華民国総統を名乗った蒋介石が、〝国共合作〟を唱えて見たものの、実体はなにも変わらず内部抗争を続けるうち、1937年に日本と蒋政権との間でシナ事変が突発する。戦闘は日本軍が圧勝し、シナ大陸の平野部を制圧した。

 しかしシナには漢族古来の悪習である阿片の吸引にからむ、イギリスやフランスの利権が根を張っている。アメリカはWASPつまりホワイト・アングロサクソン・プロテスタントの党の共和党から、フランクリン・ルーズベルトの民主党大統領に代わっていたが、移民の党である民主党は華僑と縁が深く、古くからシナびいきだ。加えてルーズベルトは阿片商人一族の出で利害関係もある。裏から手を回して蒋を助け、シナ事変をドロ沼化させた。あげくの果てに日本はアメリカ・イギリスに宣戦を布告。大東亜戦争に突入して、3年9か月戦った末に敗北を喫する。

 その機に乗じて毛沢東率いる中共軍が、蒋介石の国民党軍を撃破し、海を隔てた台湾に追い落とす。台湾は、半世紀前の日清戦争のあと、日本が清国から戦時賠償として割譲され、海外領土にしていたが、敗戦で空き家状態になっていたのだ。毛・中共は、先に日本が実質的に支配していた旧満州国を含めて、歴史上かつてなかった規模でシナ大陸を制圧し、1949年に中華人民共和国成立を宣言したことは、改めて述べるまでもない。

実務派党官僚による〝改革開放〟

 建国時点の毛・中国は、図体と人口こそデカいが、100年前にマルクス・エンゲルスが空想した姿のままの共産主義国家というべき存在で、農業と漢族伝統のニセ物・安物づくり専門の軽工業、そして高利の悪徳カネ貸し業しか存在しない状態だった。欧米はおろか、日本への留学経験もなく、本国での都市生活さえロクに経験していない、田舎教師あがりの毛沢東は、〝農村が都市を包囲する〟つまり農民一揆が都市の細民蜂起に発展するという土俗的革命様式しか脳中になく、晩年に〝文化大革命〟という独善的妄想に突っ走り、大混乱を招いてその渦中で死ぬ。

 毛の後を受け継いだ、彼の3人目か4人目の妻の江青や、その取り巻きを排除して党と国家の支配権を握ったのは、実務派党官僚のリーダーたちだった。彼らは一転して3代続けて〝改革開放〟の旗印のもと、都市型工業を中心とする経済発展追求路線に転換する。当初は日本を筆頭に欧米先進国の技術と資金の両面にわたる援助を受け、農村の余剰労動力を低賃金で活用する軽工業を主体に、工業化の基礎を身につけた。一定の発展段階を踏んでからは、御家芸のニセものづくりの域を大きく超えた、意匠・製法特許・企業秘密クソ食らえのコピー製品の洪水的輸出で、工業化の道を突進する。さらに日欧米の油断に乗じて、あるいは策謀と非道の限りを尽くして、盗み出し把握した高度な生産技術を駆使するだけでなく、最近は自前の技術開発も加えて、工業の高度化を実現させるとともに、巨大な資金力も蓄積するようになった。

もはや国家独占資本主義の権化

 共産主義国の常で主要な生産主体は国有・国営だから、設備拡張や新技術開発はもちろん、先進国企業との国際市場での競争にも、国家財政資金を惜しみなく投入し、採算を度外視してライバル打倒を図るのをためらわない。さらに最近の習近平体制に至っては、強大な生産力・資金力とそれに裏付けられた軍事力を背景に、通商・貿易から軍事・外交の領域まで、昔から確立されている国際的なルールや慣行を完全に無視し、身勝手で一方的な主張・要求を押し通そうとする。

 あるいは、開発支援の名目でアジア・アフリカから太平洋やインド洋、果ては東欧や南米に至る低発展国に対して、インフラ整備計画を示し、中国企業に施工・運営させる条件で所要資金を、返済はおろか利払いも容易でない過剰さで貸し込み、最低限でも相手国のインフラ支配を図る。それに止まらず、あわよくば資金の利払い・返済不能に追い込む、いわゆる〝債務の罠〟による属国化を狙う。

 こうなれば彼らは、もはや国家独占資本主義の権化、軍事的経済的帝国主義の典型というべきで、どこが共産主義国家だ、ということになる。それだけではない。頭目の習近平が代表格だが、いまの中国の党・政府の中枢は、かつて毛沢東が忌み嫌い、文革中に〝下放〟と称して北京から放逐してドサ回りをさせ、甘ったれ根性を叩き直そうとした、革命・建国にいささか貢献して一定の地位を得た元幹部の、子弟たちが中心だ。〝下放〟のいっときを除けば、〝共産党王朝〟の特権階級二世としてぬくぬくと育った、威張る術は知っていても苦労は知らない連中の勢揃いだ。

 つまるところ習近平・中国は、一切の他の政治思想や政治勢力の存在を許さない一党独裁制、党の最高指導者に権威と権限を集中させる権威主義的強権支配、という点では紛れもなく共産党であり、共産主義国家だが、一皮剥けばなんのことはない、国家独占資本主義に立つ、封建的軍事的帝国主義国家そのもの、が実体ということになる。顔とアタマだけは共産党・共産主義でも、正体はレーニンがいみじくも〝資本主義最後の段階〟と定義した、超帝国主義の組織体質と思考・行動実態という、異形の化物になっているのだ。

本家本元は極めて短命

 地下のレーニンも驚き呆れるのを通り越して強烈に憤激しているに違いないが、ひょっとするといまの習・中国の姿は、レーニンの死後にソビエト共産党とコミンテルンを率いたスターリンが、心中密かに描いていた理想像だったかもしれない。

 コーカサスの南、黒海とカスピ海に挟まれた中東沿いの辺境、ソビエト連邦の南端の一隅、というよりイスラム圏というほうが適切なグルジア(ジョージア)生まれのスターリンは、最終学歴が〝神学校修〟とされているが、まさかイスラム神学校ではあるまい。しかし生まれた土地のアジア的、家父長的な習俗は、彼の性格や政治体質に、拭い難く滲み込んでいたと思われる。

 レーニンによるソビエト連邦国家の形成とコミンテルンの組織化は、少なくとも形のうえでは整備された。しかし死の床にあるレーニンが、党組織によって早々と後継者に指名されたスターリンがレーニンの妻クルプスカヤに送った手紙を一見して、奴は絶対に後継者から外せ、と遺言したという有名な話を裏付けるように、スターリンはヒトラー・ドイツとの〝大祖国戦争〟では、アメリカの大量支援を受けて当初の苦戦を盛り返し、戦勝国の一角に加わった。しかし内政面の成果は極めて乏しい。粛清・処刑・暗殺が繰り返されたことだけが特徴で、大戦中でさえ、ロシア陸軍の正統を継ぐと謳われたトハチェフスキー元帥の粛清・処刑が行われた。これは裏返すと、猜疑心と冷酷さが際立つスターリンの異常性格も作用しただろうとはいえ、彼の権力が安定せず、血で血を洗う権力闘争がスターリン時代のソビエト共産党・ソビエト連邦で続いた証明、と見ることもできよう。

 スターリンが1953年3月に死んだ後、マレンコフ・フルシチョフ・ブレジネフ・アンドロポフ・チェルネンコ・グロムイコ、そしてゴルバチョフと、最高権力者である最高会議幹部会議長の座は40年足らずの間に目まぐるしく変わり、国家体制成立から70年もたたぬ1991年12月、ソビエト連邦は崩壊・消滅する。本家本元の共産主義国家体制は、実は極めて短命だったのだ。

プーチン・ロシアと習・中国の違い

 プーチン体制下のロシアに、共産党遺制の暗黒面が全然ないとはいわない。しかし習・中国とは明らかに違う。そもそもロシア共産党はいまも存在していて、複数政党制下の反プーチンの野党になっている。モスクワで行われる反プーチンのデモの姿がテレビに流れることも珍しくない。そんなことは建前としては〝一国二制度〟がいまも維持されているはずの香港でさえ、実行したら習体制の手先に一網打尽にされてしまうこと、必定だ。

 毛・中国と習・中国との民主主義のレベルの距離感は大差ないというほかあるまいが、スターリン時代とプーチン時代で、欧米先進国レベルの民主主義との距離感が縮まっている点は、事実として認めざるを得まい。習・中国は、対決型のトランプから中国べったりのオバマの副大統領だったバイデンに代わったアメリカの出方を、甘く見ていたと思われる。その思惑に反してバイデンが、習・中国の反民主性を批判する世界の110余の国・地域を集めて、オンラインによるサミットを開いたのに反発して、かねて吹聴している〝中国型の人民民主主義〟なるものの講釈を、世界に向けて繰り広げて見せた。

 しかし、ネット規制をしても、それをかい潜って世界中から情報が届く時代だから、習体制の国内向け宣伝が主な目的だったとしても、笑い話になることは避け難かったが、さてそこで、〝民主集中制〟とやらを党是として奉ずる、わが日本共産党はどうか。

笑い話にもならない落ちぶれよう

 はじめに身もフタもない結論をいってしまえば、革命を呼号して政党を立ち上げ、100年たっても革命のカの字にも辿り着いていないどころか、ひところ達していた党勢水準から大幅に後退して、社会主義ではなく、ウソかマコトかは別として〝リベラル保守〟を標榜する党の代表と、総選挙の候補者調整、というと聞こえがいいが、票の貸し借りの談合をする姿に落ちぶれ、それでも店を畳まないでいるあたり、笑い話にもならない、というほかなかろう。

 筆者はちょうど半世紀前の1972年に『裸の日本共産党』(日進報道刊)という単行本を出している。半世紀前に書いたということは、日共の結党50年の節目に書いたということだ。1953年に新聞記者になって大阪で6年余、東京に転じて10年。他の持ち場とともに一貫して日共取材を続け、1969年に独立した筆者の、フリーとしてのデビュー作の一環だ。

 このころ、一方では〝60年安保騒動〟で露呈された社会党―総評ブロックの無責任な扇動ぶりと、それにたやすく操られた全学連の乱暴さ加減が、社会的に非難されていた。他方では、60年台後半の池田勇人内閣の高度経済成長政策が成果を出しつつある中で、青年層と地方から大都市に集まった若年勤労者層を中心とした日共の党勢の伸びが、保守政界や経済界の一角で問題になっていた。

 50年に日共は、当時の徳田球一書記長を中心とする主流派と、志賀義雄・宮本顕治らを主軸とする反主流派が、分裂抗争を繰り広げた。朝鮮戦争を背景にしたスターリン―毛沢東の教唆もあって、主流派は1951年2月の第6回党大会期の第4回中央委員会総会で〝武力闘争方針〟を採択。その一環として幼稚極まる〝火炎瓶闘争〟を展開して指弾され、選挙でも敗北を重ねて、壊滅に瀕する。

 55年7月のいわゆる6全協、党分裂を収集するために開くのだから、正規の手続きである中央委員会総会を名乗れず、全国協議会と称した両派の談合出党の統一を回復。58年の第7回党大会で宮本が書記長に就任し、61年の第8回党大会では、分裂下で主流派が独自に採択していた〝新綱領〟、いわゆる〝徳田(球一)綱領〟に代わる新しい綱領を採択。第9回大会ではソビエト共産党、第10回大会では中共と、それぞれ従属関係を断ち切る〝自主独立〟路線を確立する、といった形で宮本体制が着々と強化される。

切った大見得の実態は・・・

 1970年7月の第11回党大会では、宮本中央委員会幹部会議長―不破哲三書記局長の体制を確立。〝50万近い党員〟と〝100万部に近い日刊機関紙『赤旗』と400万部近い日曜版〟を実現した、と自画自賛し、「70年代のできるだけ遅くない時期に自民党政権に代わる民主連合政府を実現する」と中央委員会報告では大見得を切った。

 いまも日共批判で〝敵の出方論〟が出てくるが、これは分裂時代に主流派が唱えた武力革命論や火炎瓶闘争は取らないとする一方、「国民が(選挙で)選んだ合法的な政府が、一部の無法な暴力に無条件に降伏」するわけにはいかない、つまり旧権力機構側の出方によっては実力行使すなわち暴力革命も辞さない、と示唆していると見る批判だ。この「無条件に降伏」できないという表現は、第10回党大会の討議で述べられた、宮本の答弁に由来している、という経緯がある。

 日共の党勢は、党中央が大会や中央委員会などで〝報告〟する数字と、公安調査庁や警察の情報との間で、常にかなりの開きがあるが、第10回大会当時の機関紙の実数は、日刊『赤旗』本紙が40万台の半ば、日曜版は300万部は超えたが350万には届かず、合わせても400万弱の水準だった、と見ていいようだ。党員数は、1980年ごろ、正味で50万人に迫ったとされている。

 これが頂点だったと思われるが、昨年11月末に行われた中央委員会総会を報じた11月27日付産経新聞の記事によると、いま日共の党員は20万人を切っていて、このうち30%が党費を滞納している、と党本部が中央委員会に報告したという。

 機関紙に関しても、日刊本紙・日曜版合わせて100万を切る水準に低落していると報告された、と書いてある。察するに、日刊本紙がほぼ党員数と同じ20万部前後、日曜版が50万部から60万部、といったあたりと思われるが、党員の高齢化で配達が極めて困難になり、部数減に拍車をかけている、という説明が党本部からあったという。

いじらしい、夢を追う姿

 それなら日共の実態は、高齢化がかなり深刻な状態まで進んでいる、と察しがつく。日共の党費は収入の1%、と昔から決まっているが、現役世代なら税金や社会保険料との比較でそんなに負担感が高いとは思われない。他の政党の党費がいくらくらいか、まったく知らないが、他の世間一般の団体会費などに較べて、むしろ低いといえるのではないか。それを3割の党員が滞納しているということは、たぶん年金だけが定収入の世代の党員が多数を占めるようになっている、という事情の反映と思われる。

 今回の総選挙での立憲民主党との小選挙区の候補者調整も、立民の意図は日共の固定票欲しさに決まっているが、日共の本心は、いままでは面子にかけて当選可能性がゼロの選挙区にも候補者を立て、惨敗して供託金没収に甘んじてきたが、もはやそんな余裕がない財政事情に陥ったがゆえの、面子を保って戦線を縮小する苦肉の策、という見方がある。

 かなりヒトが悪い見方だ、とも思うが、革命を志して100年、志が一変して超権威主義・独裁権力の確立、極端な富の集中、そして国内はもちろん国際社会までを脅かす極度の軍事的威圧を伴う帝国主義経済国家への変身。あるいは完結できなかった革命が残した悪しき遺制を止める、ただの国家への舞い戻り。そうした姿に較べれば、先達はとっくに死に絶え、後身もいまや老いさらばえて、困窮の度を深めつつも、いまも革命の夢を追い続ける姿は、いっそいじらしく思える。

(月刊『時評』2022年2月号掲載)