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俵孝太郎「一戦後人の発想」【第122回】

『日本列島改造論』発表から半世紀 いまだに目立つ成果なし 復活望まれる大型審議会

初版いらい50年を経た現在、その内容を知る人はほとんどいないと思われる。それに先立つ『都市政策大綱』の存在についてはほぼ絶無だろう。いらい半世紀、ことに中曽根政権以後は政と知の融合は失われ、国家の長期計画を議論する風潮は完全に過去のものとなった。岸田が長期政権を望むなら、鮮烈な国家戦略を策定する場を整えることが不可欠だ。

そもそも名前と実績の認知は?

 今年2022年は、昭和の元号で数えれば昭和97年になる。それなら昭和47年6月に初版が出た田中角栄の『日本列島改造論』は、世に出て50年、半世紀を経たことになる。果たしてこの半世紀間に「日本列島」はどう「改造」されたか。されなかったか。

 と書き出してはみたものの、いまの世の中に『日本列島改造論』を知っている人が、どのくらいの比率でいるものだろうか。その前に、そもそも田中角栄の名前と実績を知っている人が、どの程度いるだろうか。

 ひょっとすると、半分もいないかもしれない。ロッキード事件で捕まって表向き政界から退いたことになっていたが、長く裏から政府や与野党を操り〝闇将軍〟といわれた人物という程度の認識があれば、テレビ「情報番組」の〝ニュース芸人〟や、彼らに放送原稿を渡す制作スタッフ、お囃子方であるコメンテーターくらいは務まるのではないか。

 新聞の政治記者でも、田中の名前くらいは知っているだろうが、中身はどんなものだろう。官僚型政治の極致といえる佐藤栄作長期政権の次の叩きあげ野人型首相で、日中国交正常化を実現したが、2年ほどで金脈・人脈問題で首相の座から降りざるを得なくなったうえに、その翌年にはロッキード事件に関与したとして逮捕され、一審有罪判決を受けて表向き政界を引退したのに、裏で政府与党の人事を動かし続けた。中国との深い関係を駆使して、政府与党だけでなく社会党や創価学会・公明党や財界にも強い影響力を持ち続けた。さらに、岸信介内閣で初の30代大臣として郵政相に抜擢され、ちょうど発展期を迎えていた民間テレビの地方ネット局網の整備にかかわり、この分野に精通したことで、中央キー局と5大全国紙がそれぞれ組んで系列の全国ネットづくりを競っていた業界事情も反映して、新聞・テレビを通じマスコミ界全般にも、また地元のテレビ局に関与しようとする全国各地の地方ボスたちにも、隠然たる影響力・支配力を持ち続けた。そうして築いた広い人脈を、党・議会・政府を通じ自身の存在感を強める力の源泉にし続けた。ここまで知っていたら、たいした勉強家といえる。

 『日本列島改造論』にしても、自民党総裁選挙に立つに際して、持論を秘書に口述して筆記・修文させた、政界では珍しくない〝選挙本〟という程度の認識はあっても、実際に読んだ人間は、まずいないのではないか。書名は知っていても読んだことはない、というのは、現役の政治記者に限らず、政治学者にも共通していると見て、間違いあるまい。

質的レベルが違う〝改造論〟

 『日本列島改造論』が、ポスト佐藤の自民党総裁選挙に出馬する田中角栄が、投票権を持つ自民党所属国会議員をはじめ、党員や党の支持者、財界やマスコミ、広くは有権者国民に対して、自分の所信・政策を示して支持を集めるべく公にしたものであることは、明らかな事実だ。もちろん、というのもおかしいかもしれないが、田中自身がペンをとって書いた著作ではない。しかし世間に多い俄仕立て、やっつけ仕事の〝選挙本〟に較べれば質的レベルが違う、とはいえる。

 佐藤政権が長期化する中で、田中角栄は東京タイムズの早坂茂三、共同通信の麓和明、2人の40代の働き盛りの敏腕政治記者を、おそらく狙いを定めてスカウトして秘書にした。そして通常の秘書業務にはつかせず、当時の通産省を中心に、2人とほぼ同年配の中堅官僚を選抜した数人規模のチームをつくらせ、基本的な構想に止まらず、たぶん章分けした個別政策についてのデッサンも示したうえで、メンバー全員に議論を重ねさせ、一冊の政策論として書籍化するよう命じたと思われる。それぞれのテーマに沿って関連する政府資料・統計を徹底的に集め、必要に応じて担当省庁から政策面でも現場的にも精通した役人を呼んでレクチャーさせ、まとめていったのだろう。その作業に、数カ月単位でなく1年余はかけたのではないか。

2人の長老の反旗

 ポスト佐藤の総理総裁の座は、実質的には佐藤の実兄である岸信介が率いる派閥を継いだ福田赳夫と、佐藤派の実力者として通産・大蔵大臣や自民党幹事長を務めた田中の争いだったが、佐藤ははじめから福田を後継首相に指名するつもりだった。田中はよくて福田の後の佐藤系の総裁候補、というより、実のところは自分の代で使い捨てる党務・閥務の実務者、としか思っておらず、佐藤派はそっくりそのまま福田派に鞍替えさせても構わない、と思っていたフシがある。佐藤自身が、同じ吉田茂門下の同志である池田勇人の総理総裁3選に反対し、さっさとオレに順番を回せ、といわんばかりの〝同士討ち〟で自民党総裁選に立って敗北を喫し、本来なら冷や飯を食わされて当然のところ、3選後に間もなくガンを患っていることが判明して退陣せざるを得なかった池田の後継者として、池田3選に協力した河野一郎や藤山愛一郎でも、藤山を強く押した池田の古くからの盟友で池田派を継いだ前尾繁三郎でもなく、旧師・吉田茂の取りなしに従って、自らの陣営内の不満を押し切って病床から佐藤を後継者に指名し、禅譲という形で無競争・総裁選なしで首相の座を引き継いだという〝成功体験〟がある。吉田以上の長期政権を築いて、吉田がアメリカに施政権を渡した沖縄を取り返したオレ様は、いまや自民党の大長老になっているはずだ、という気分で、福田を後継者に指名して政権を禅譲してもそれが覆ることはありえない、と盲信したのだろう。福田赳夫も佐藤からの禅譲を必然視して格別の努力も準備もせず、棚からボタ餅が落ちてくるのを漫然と待っていた。その怠惰とも傲慢ともいえる姿勢に対して、田中が全国から発掘して育てた、当然佐藤派が中心だが、当時の中選挙区制の選挙事情で党内各派に分散させている若手議員はもちろん、佐藤派の重鎮級からも強い反発が噴出した。

 片や管理系、片や電化技術者と、畑違いではあるが、旧鉄道省の同期入省で、ともに運輸事務次官・国鉄電気局長という所掌分野のトップになった、佐藤に耳の痛いことを平然と直言する唯一の存在と定評があった西村英一。昭和30=1955年の〝保守合同〟に際して、吉田茂が不同意で自民党に加わらず無所属になったのに殉じて、当初は無所属を選択した佐藤にさらに殉じる形で、つまり親分に殉じた代貸にその子分がまた殉じたといういささか滑稽な形で無所属になった、佐藤の〝忠臣〟といわれていた橋本登美三郎。この2人の長老が、佐藤の態度は理不尽極まるとして反旗を翻し、田中擁立に回った。

随所に感じられる田中の〝肉声〟

 結局はいわゆる〝三角大福〟、三木武夫・田中・大平正芳・福田の4人が立った総裁選になり、決選投票で田中が大差をつけて福田を破り政権の座についた。これが70年代を通じて自民党を、というより政界を震撼させ続ける〝角福戦争〟の開戦の号砲になったわけだが、『日本列島改造論』に戻って、これは田中の意を受けた数人の共同作業の産物ではあるが、随所に田中の息遣いというか、彼に接し、とりわけ彼の全国遊説の語り口をさんざん聴いたら忘れっこない彼の〝肉声〟が感じ取れる部分がある。

 おそらく一言一句、身辺にいる早坂や麓に口述し、その通り書き取らせてそのまま活字にしたのだろうが、「序にかえて」と「むすび」には、当然だが特にその印象が強い。まず「序にかえて」から引用するが、

 「明治維新から百年余りのあいだ、わが国は工業化と都市化の高まりに比例して力強く発展した。(中略)ところが、昭和三十年代にはじまった日本経済の高度成長によって東京、大阪など太平洋ベルト地帯へ産業、人口などが過度集中し、わが国は世界に類例をみない高密度社会を形成するに至った。巨大都市は過密のルツボで病み、あえぎ、いらだっている半面、農村は若者が減って高齢化し、成長のエネルギーを失おうとしている。都市人口の急増は、ウサギを追う山もなく小ブナを釣る川もない、大都会の小さなアパートがただひとつの故郷という人をふやした。これでは日本民族の優れた資質、伝統を次の世代へつないでいくのも困難となろう。

 明治百年を一つのフシ目にして、都市集中のメリットは、いま明らかにデメリットへ変わった。国民がいまなによりも求めているのは、過密と過疎の弊害の同時解消であり、美しく、住みよい国土で将来に不安なく豊かに暮らしていけることである。そのためには都市集中の奔流を大胆に転換して、民族の活力と日本経済のたくましい余力を日本列島の全域に向けて展開することである」   

 そして「むすび」では

 「明治、大正生まれの人びとには、自分の生まれ故郷にたいする深い愛着と誇りがあった。故郷はたとえ貧しくとも、そこには、きびしい父とやさしい母がおり、幼な友達と、山、川、海、緑の大地があった。志を立てて郷関をでた人びとは、離れた土地で学び、働き、家庭をもち、変転の人生を送ったであろう。(中略)成功した人も、失敗した人も、折に触れて思い出し、心の支えとしたのは、つねに変わらない郷土の人びとと、その風物であった。

 明治百年の日本を築いた私たちのエネルギーは、地方に生まれ、都市に生まれた違いはあったにせよ、ともに愛すべき、誇るべき郷里のなかに不滅の源泉があったと思う。

 私が日本列島改造に取り組み、実現しようと願っているのは、失われ、破壊され、衰退しつつある日本人の〝郷里〟を全国的に再建し、私たちの社会に落ち着きとうるおいを取り戻すためである。

 人口と産業の大都市集中は、繁栄する今日の日本をつくりあげる原動力であった。しかし、この巨大な流れは、同時に、大都市の二間のアパートだけを郷里とする人びとを輩出させ、地方から若者の姿を消し、いなかに年寄りと重労働に苦しむ主婦を取り残す結果となった。このような社会から民族の百年を切りひらくエネルギーは生まれない。

 かくて私は、工業再配置と交通・情報通信の全国的ネットワークの形成をテコにして、人とカネとものの流れを大都市から地方に逆流させる地方分散を推進することにした。
 
 この『日本列島改造論』は、人口と産業の地方分散によって過密と過疎の同時解消をはかろうとするものであり、その処方箋を実行に移すための行動計画である」

 と述べている。

先立つ、『都市政策大綱』

 田中角栄はその4年前、佐藤内閣中盤の時期に、自民党幹事長から都市政策調査会長という閑職に転じ、『都市政策大綱』をまとめている。当時は池田内閣が推進した高度成長政策の成果が実感を伴って世間一般にも浸透するようになった半面、東京を典型とする大都市圏への人口の過度集中、住宅難と家賃・部屋代の高騰、近郊住宅地の暴騰と入手難、水道・道路などの生活インフラの整備の遅れやさまざまな公害の多発など、都市問題がマスコミなどでも大きく扱われるようになっていた。この〝調査会〟はこうした状況に対応する自民党内の臨時機関で、要するに議員が関係省庁の官僚を呼んで示された公的資料を見ながら議論する場に過ぎず、外部関係者や学識経験者の参加は、18回開かれた分科会に参考人として出席して発言する場合に限られていた。

 『都市政策大綱』は〝中間報告〟という形で、未完成の政策と自ら規定しつつ、450ページほどの大冊になって残っているが、ほぼ8割は諸官庁が提出した資料の羅列で、財政措置を含めて5章からなる本文の構成は、まず総括的な問題提起、続く2章は大都市圏に充てられ、このうち1章はもっぱら土地問題だ。地方は中核都市の展開を中心に、第4章で20ページほど触れているに過ぎない。それも大半は問題点として委員つまり議員から陳情がらみで指摘された課題を箇条書きに列挙しただけで、お座なりもいいところだ。田中のアタマの中には、米作地の中越が選挙区の議員として、重化学工業中心の産業立国だけでなく、地方で工場を展開するだけでなく産業として大規模農業を育成する道もある、という強い思いがあり、それが〝列島改造論〟につながっていったとも考えられる。

 『日本列島改造論』は、発行当初、総理総裁選挙に名乗りを上げた叩き上げの〝今太閤〟田中角栄の人気を反映して大ベストセラーになった。ただ、この中にイラストとして掲載された日本全土の新幹線網・高速道路網の完成予想図が、テレビや週刊誌で〝改造〟を象徴するものとして扱われ、また田中の経歴をことさらに強調した対抗勢力による〝土建屋政治家〟のマイナス・イメージづくりの影響もあって、〝鉄とコンクリート〟による〝列島改造〟と誤伝される傾向があった。

 しかし田中は、『改造論』では今日各地で見られるような、若者が都市を離れて農村に移住し、ハウスを大規模に展開して野菜やイチゴなどを大量生産し、企業農業を輸出産業に育てる未来像も、はっきり描いている。

〝田園都市構想〟として蘇るも

 池田勇人の高度成長政策とその成果を「昭和元禄」と揶揄した福田赳夫や「花見酒の経済」と冷評した偏向新聞の論説ボスとは正反対に、〝明治百年〟の輝かしい到達点と認識し、〝列島改造〟はその延長線上にあるものだと明言したうえでの、ポスト工業社会の農業を〝列島〟を支える産業のひとつとして捉えていたのだ。

 池田がポスト岸信介の総裁公選に際して示した政策は、下村治をトップに据えて編み出した、日本の沿海地域に重化学工業を中心に新しく産業都市のベルトを構築し、高度・高品質の輸出製品を世界に供給して、日本の高度経済成長と国民所得の10年間での倍増を実現する、とする〝所得倍増計画〟だ。西日本新聞の東京支社の政治記者時代から池田ブレーンの中核的存在で、首相時代の首席秘書官になった伊藤昌哉が〝月給2倍論〟という表現で世間に広げたとされるが、大平正芳・黒金泰美とともに池田を支えた〝秘書官トリオ〟の最若手である宮沢喜一によると、〝月給2倍〟による国民経済振興のアイデアは、まだアメリカ軍による占領支配下、朝鮮戦争が勃発して後方補給基地としての日本の存在が重視され、日本の経済社会が急速に復興に向かう前の昭和24=1949年に、後に一橋大学長になった中山伊知郎が、雑誌寄稿で使った表現を、同郷の親しい新聞記者から池田が聞いたことからはじまったという。

 池田から田中にバトンが渡った日本の国土と産業配置・国民生活のグランドデザイン、すなわち日本の内政の総合的な政策体系づくりの試みは、〝角福戦争〟の対抗勢力である三木武夫、福田赳夫の政権では一顧だにされずにスルーされ、池田の〝秘書官トリオ〟の筆頭だった大平正芳の政権で、田園都市構想として蘇る。しかしポスト佐藤で田中と争ったときと同様、根拠なき楽観で自分が再選されると盲信していた福田が決選投票で大平に敗れ、「天の声にもヘンな声がある」と捨てゼリフを残して退陣。遺恨に塗れた派閥根性の暴走を連発。まず三木と組んで第2次大平内閣の首班指名で〝40日抗争〟という前代未聞の醜態を演じる。それにも敗れた半年後には、社会・公明・民社の3野党が国会終幕の恒例のショーのつもりで衆議院に提出した大平内閣不信任案に、仮にも与党の一員である自覚を放棄して本会議欠席戦術に出て、事実上の賛成をする。これに対し大平は憲政史上初の衆参両院ダブル選挙で応ずるが、積もる疲労で選挙戦早々に急逝する事態になる。

「ふるさと創生」で大きく変容

 大平は第1次内閣の組閣直後、「二一世紀を展望した長期の政策ビジョンを検討立案するために九のグループからなる政策研究会」を「人文・社会・自然科学の広範な分野にわたる学者、有識者、各省庁中堅クラス等、延べ約二百名からなる専門家」を「原則として昭和三十年代に大学卒業の世代の人材」を起用して発足させた(大平没後、そしてダブル選挙の直後に各グループごとにまとめられ、伊東正義首相臨時代理に提出された報告を集めて、昭和50=1985年8月に鈴木善幸自民党総裁名で、資料も含めると800ページを超える大冊として書籍化された『大平総理の政策研究会報告書』の、いわば前文に相当する「解説」から引用)。

 この〝九の研究会〟とは、「文化の時代」「田園都市構想」「家庭基盤充実」「総合安全保障」「環太平洋連帯」「対外経済政策」「文化の時代の経済運営」「科学技術の史的展開」「多元化社会の生活関心」であり、この問題意識に池田や田中と色合いを異にする大平色の滲む関心のありようがみられる。

 しかしこれらの「報告」は結局のところ文献・記録として残っただけで、部分的に各省庁の施策に反映されたことがなかったとはいえないとしても、総体として機能することは望むべくもなかった。

 大平の後継者である鈴木は、自身が政権の最後の官房長官として関与した、池田がガンによる急な退陣の前に自民党総裁3選後の課題としていて手付かずのまま残り、佐藤以降は無関心のまま放置されていた、〝臨時行政調査会〟方式による行政改革の復活を最優先させ、中曽根康弘を担当大臣としていわゆる〝土光(敏夫)臨調〟をつくる。これは鈴木の後継首相である中曽根の手で国鉄・郵政・専売の3公社の民営化をはじめ、一定の成果をあげた。

 中曽根はさらに首相直属の審議会として独自の設置法によって設けた臨時教育審議会=臨教審に、大平の〝研究会〟に加わったメンバーを多く委員・専門委員として起用して、大平の遺志を自身の流儀によって具現しようとした。

 しかし政治の世界と知的世界との濃密な交流があったのはここまでで、中曽根の後継首相の竹下登は、「ふるさと創生」を唱えて彼なりに田中派OBの色を出そうとしたが、実績は全国の自治体に対して自由に使えるカネを1億円均一で交付したり、この効果もあってか彼の時代に町村の人口とは不釣り合いなホールや会館がやたら建ったり、お笑い草のような話になってしまった。

長期政権を目指すのなら

 それ以降は竹下にも及ばぬレベルが漫然と続いている。衆知を結集した大政策体系づくりの風土が損なわれたことが、高度成長政策の歪んだ発展であるバブルを生み、その崩壊以降の平成初年以降の〝失われた30年〟につながった、といっても過言ではあるまい。

 岸田内閣は、小泉純一郎―竹中平蔵いらいの新自由主義路線や、いわゆるアベノミクスによる財政規律をアタマから無視したMMTすなわち現代金融理論と一線を画す、〝新しい資本主義〟を掲げて、分配の重視による所得向上とデジタル田園都市の建設を掲げている。いままでの、福田赳夫亜流のごく少数の〝ブレーン〟に頼る経済手法を転換する意欲は窺えるが、しかしそれぞれ池田の「所得倍増」、大平の「田園都市国家」をなぞった感を否めず、いかにも薄っぺらな、コトバだけを借りてきたという印象を免れない。

 岸田が参院選を乗り切って長期政権を目指そうというなら、いまからでも遅くはない。『日本列島改造論』と、とりわけ『大平総理の政策研究会報告書』の両書、池田勇人を創始者とする宏池会5人目の総理総裁を自負するのであればとりわけ後者を、9の研究会それぞれの力の籠もった長文の報告を熟読したうえで、自身の〝新しい資本主義〟の柱となる少なくとも5本か7本の項目を定め、21世紀後半の日本を担う人材を委員に簡抜して、多くの部会を持つ大型審議会を首相直属機関として設置すべきだ。中曽根の臨教審のように当初から3年程度を見込んで、鮮烈な国家戦略を策定する。そうしてこそ、宏池会出身総理の面目が立つというものだ。

(月刊『時評』2022年4月号掲載)