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俵孝太郎「一戦後人の発想」【第125回】

「第五列」と「第五列的なもの」 意図的内通者・裏切り者と無意識・独善の果ての内通

ロシアのウクライナ侵略で「第五列」のことばを久々に聞いたが、正しくは「第五列的なもの」と言うべきだ。「的なもの」には、反核・核兵器不拡散の運動を例とし、その中身は思考停止の〝善男善女〟による迷妄に過ぎず、今なお醒めないのは不思議千万だ。

〝謀略〟を軸とする大きな違い

 80年も昔の小学生時代にさんざん耳にした罵り言葉を、いまどき、まったく久しぶりに聞いた。「第五列」だ。

 老人性被害妄想の発作か。老人特有の欲呆けの新種である領土拡張欲の衝動的突発行動か。そうとしか考えようのない状況で、突然ウクライナに侵略戦争を仕掛けたロシアのプーチン大統領が、足元のモスクワなど、ロシア国内のいくつもの都市で沸き上がった若者を中心とする市民の反戦デモに向けて、国営の御用テレビのカメラの前で、満面に怒気を籠めつつ発したセリフだ。

 それをキャリーした日本の公社・民営のお気楽テレビの〝ニュース芸人〟たちは、口を揃えて、「第五列」とはスパイのことだ、と脳天気に説明してみせた。しかし、そんなに単純な話ではない。

 手元の『久松潜一監修 改訂 新潮国語辞典 現代語・古語』は「第五列」を「ダイゴ【第五】五番目、五回目」の関連で、「敵のために謀略・諜報などを行う内通者。第五列」と説明している。

 「スパイ」のほうは、「スパイ(spy)一方の手先となって他方の秘密を探るもの。回し者。間諜。密偵」だ。〝謀略〟がついているか、どうか、が着目点だ。ちょっとした違いのようだが、実は大きな違いなのだ。

スパイは情報を扱い、「第五列」は謀略を主任務とする

 スパイは一業態・多品目を扱う個人商店のようなものだ。基本的には個人プレーだが、当然のこととして注文主もいるし、納入先もある。指揮・命令系統は明確だが、それを表に絶対に出さないのがこの〝業界〟の掟だ。縦の線は厳然として存在するが、互いの横の連絡は避けて、個々別々に動く。仕事の対象は、国家の軍事機密・外交秘密や国政の基本方針・特殊な統計資料から、企業の技術情報やセールス戦略、さらに芸能・興業界の活動計画やスターのスキャンダルまで、公的・私的、まことに多岐にわたるが、扱うのはあくまで情報であって、そこからの〝加工〟は別の業種の領域になる。

 軍人とかヤクニンとか、会社員とかマスコミ関係者とか、本業を持つものが〝副業〟としてやるケースも少なくない。この道に踏み込んだ動機には、愛国心とかイデオロギーとか、抽象的な要因もあるが、それ以上に、カネ目当てとか、興味本位という場合も多いのではないか。職業上の人間関係や、昔の仲間・親族との義理がきっかけで、人情がらみでずるずるとクサレ縁が切れなくなってしまった、というケースもあるだろう。本人にスパイを働いている、あるいはスパイの手先を務めている、という認識なんか毛筋ほどもないのに、いつの間にかネットワークの中に組み入れられて、固定的な情報源にされてしまった場合も少なくないのではないか。司令塔の存在は明らかだが、スパイが公然とチームを組んで集団行動することは、絶対にありえない。そんなことをしては目立ってしまい、目的を達成するどころか、一網打尽で相手方に御用といわれる羽目に陥る。

 これに対して「第五列」は、基本的に国家対国家の集団的な地下工作として計画され、組織され、活動する。たとえ平時でも問題の性質上、あくまで存在しないものとして互いにシラを切り合い、見て見ぬフリをしながらそれぞれが活動させる。どんな国家も、スパイ部門・情報機関とともに、必要悪というか不可欠な組織として、憲兵の外側に存在するもう一つの軍隊組織のような見立てで、プロ集団として育成し、抱えているのが、正確な実態だろう。

 彼らの任務の中にはスパイ的な要素も当然入るが、第一義はあくまで謀略だ。相手方の権力構造なり軍事能力なりを、いかに的確に探知して破壊工作の対象にするか。そこまではいかなくても、さまざまな手段を弄して妨害工作を仕掛けるか。それが主目的だ。そんなことが一人でできるわけがないから、局面によっては謀略の全貌を秘匿するために単独行動をとることはいくらもありうるが、緻密に組み立てた作戦行動のもと、集団で取り組むのが基本になる。

ヒトラーと酷似する出世過程

 スパイも縦線の上にいくほど高度のプロが仕切るが、「第五列」の本隊を形成するのはあくまでそのために養成されたプロだ。プーチンは若くしてそのプロを志し、然るべき大学を出るか、一定以上の軍歴を持つかしなければ養成コースにさえ加えさせることはできない、といったんは断られ、レニングラード大学に入学した。法学部の卒業免状を手にして、改めて悪名高いソビエトの秘密組織KBGの要員養成機関入りしたとされる。

 最底辺からじわじわ昇進し、東ドイツを現場で看視する駐在スパイを経験して中堅幹部になったところで、ソビエト国家体制が崩壊する。それに伴って上層部がいっせいに吹っ飛んだため、レニングラード=サンクトペテルブルグの地方組織のトップから、KGB全体の頂点に飛び上がった。

 日本が、米英中ソが連名で出したポツダム宣言を受け入れて降伏したのち、日本を占領統治したアメリカ軍の指令で、戦時下の政府高官が揃って公職を追放され、そのあとをまだ責任を問われるほどのポストにはついていなかった中堅クラスが、一挙に次官・局長に成り上がって、世間から〝ポツダム次官〟〝焼け太り局長〟などと嘲られたことがあった。それと同じ仕掛けでプーチンは、上司が去ったペテルブルグから首都モスクワに移って大出世の一歩を踏み出し、ソビエト共産党中央委員会議長として国を率いていたゴルバチョフが連邦解体の責任をとって退陣したあと、これも意表をついてロシアの大統領に成り上がったエリツィンの目に止まり、思いもかけなかったロシア中央政府の首相から、ついには後継の大統領にまでなったわけだ。

 根っからのスパイであり「第五列」のオルガナイザー=オルグつまり末端の組織者あがりが、大統領にまでのし上がったという〝変身ぶり〟は、ウィーンのヘタクソ画学生だった小男が、軍隊に加わって下士官の底辺である伍長になり、第一次世界大戦のドイツ帝国の崩壊、敗戦後のワイマール共和国のアタマでっかちの無能政治に抗して一旗あげて頭角を顕し、あれよあれよという間にドイツの政権を握ったヒトラーと、酷似している。

一世紀遅れのアイデアの焼き直し

 プーチンのウクライナ急襲侵攻の大義名分は、ウクライナ東部・南部に散在するロシア語を常用するロシア系の住民が、ウクライナ政府やウクライナの〝ナチス勢力〟から迫害されているのを解放する、という妄念だ。しかしこれは、ウクライナとベラルーシを加えたスラブ民族至上主義、そしてその中のロシア中心主義に立った独善的な考えであって、ヒトラーのゲルマン民族至上主義、その中のドイツ中心主義となんら変わりのない、一世紀遅れのアイデアの焼き直しに過ぎない。

 ヒトラーがポーランド、そして返す刀でオランダ・ベルギーを超急速で走り抜けてパリに迫ったブリッツ・クリークすなわち電撃戦の手口と、今回のプーチンのウクライナ侵攻の手口。そして、ウクライナを救援するアメリカを中心とするNATOに対して、必要と思えば稲妻の如き早さで反撃する、と核兵器使用も辞さないと示唆して脅迫する凶暴さ。これらもヒトラーの生き写しだ。

 下士官あがりと「第五列」のプロの養成機関出身者、基礎教養の機会に恵まれなかった層の歴史認識が、そんなに傑れたものであるとは、常識的には考えられない。しかし、そうした独善的な歴史観・世界観を持った人物が、独裁権力者になって強大な軍事機構を一手に握り、それを思うままに動かした例は、古来必ずしもありえないことではない。そうした状況が生じた場合、世界に大きな災厄をもたらされる惧れが避けがたいが、人間の歴史は、スケールの大小はあるとしても、100年に1回くらいの割合でそうした事例に遭遇してきた。

 19世紀後半に生まれ、20世紀前半に2度の世界大戦を体験させられたヨーロッパ人たちは、そうした不運の被害者の代表例だろう。20世紀前半のさらに半ばごろまでに生まれ、21世紀の20年代にまで生き残っている筆者たちの世代も、住む場所によって影響を蒙る度合いに大きな差はあるだろうが、いずれはそうした歴史の循環の中で、2度続けて大型の波を浴びさせられた不運な世代、と記憶されるに違いない。

2通りの「第五列的なもの」

 話題を「第五列」に戻して、〝列〟という以上は相当の人数による集団でなければ体をなさない。主な任務が〝謀略〟だから、最上層部からの指令に従って集団を指揮・統率して管理・監督するプロの幹部級は、当然のことながら隊列の周辺に姿を埋没させて、韜晦していなければならない。しかし「第五列」の目的は自国の国益に反して対立する特定の国家・勢力に有利に作用するように行動したり、そこまではいかなくても自国の社会に影響を及ぼす工作を続けることだ。異例・特殊なケースである直接行動は別として、日常的な宣伝・煽動、あるいは組織の拡大やシンパの獲得工作は、労働組合や学生自治会が典型の大衆団体、各種の市民運動・住民活動などを〝主戦場〟とするわけだから、真意は秘匿しながら組織のメンバーを目指す方向に誘導する〝現場指導者〟が不可欠だ。正確にいえばここまでが「第五列」であって、彼らに率いられ、操られる大多数の構成員は、「第五列的なもの」と区別して扱うべきだろう。

 プーチンがそうした使い分けをしたうえで怒号したとは思えないが、ロシアのデモ隊にも日本のさまざまな運動や団体にも、「第五列」のほかに、2通りの「第五列的なもの」が存在すると思われる。一方は運動家・団体屋と呼ばれるプロと違ってアマチュアだが、問題意識と使命感はプロと共有していて、自国でない、どこの、だれの、利益とつながっているのか、そのからくりを百も呑み込んだうえで、なにくわぬ顔と素振りで、ただの構成員として活動しているメンバーだ。もう一方は運動・団体の掲げる建前を文字通りアタマから信じこみ、それが自身の信念と合致しているとして一途にそのからくりの中に没入し、なんの疑いを持たない連中だ。

 このうち後者までも「第五列的なもの」に加えるのは酷なように思われるかも知れないが、必ずしもそういってもいられない。単純な正義感や一般常識に沿った判断で動く、幼稚で軽挙妄動ヘキのある善男善女、といってもいい彼ら・彼女らが、実態としては「第五列」の隊列の主要な勢力を占めていて、世論に対する宣伝・煽動工作のうえで、多大な効果を発揮しているからだ。

具体例としての反核運動

 具体例として、反核・核兵器不拡散の運動を考えればいい。一見すると非のうちどころのない、疑問の余地なんかない、純粋な正義感に立つ意義深い社会活動のように感じられるかもしれないが、少し気をつけて観察・考察すれば、明らかに臭気芬々のいかがわしいものと、容易にわかるはずだ。はっきりいえば、わからないほうがおかしい、というほかないほど簡単なからくりだからだ。

 いうまでもなく現在の核兵器保有国は、米英仏中ロの国連安全保障理事会常任理事国の5カ国を筆頭に、新入りの北朝鮮までを加えれば10指を超える。この半世紀近くの間、核兵器の開発・保有は野放し状態を続けていて、いまさら不拡散と唱えてみても、マトモな感覚に立てばなんの意味もない。

 仮に核兵器をこれ以上拡散させないようにするのであれば、現に核兵器保有国の最古参であり、国連安保理常任理事国でもある5カ国が、正式な国連決議を経て共同して世界平和の維持・執行機関、すなわち国連常備軍の中核となり、彼らの持つ核兵器の抑止力で国際社会の安全を完全に保障する。そして、他の群小後発の核兵器保有国が非核兵器保有国を核兵器で威嚇したり、万が一にもそうした国に対して紛争が起きた場合に核兵器を使おうとしたりしたら、一致して断固たる制止行動をとり、状況によっては国連の名において核兵器を使用してでも軍事制裁を加える。こういう仕組みの成立が大前提となるべきだ。その体制を整備したうえで、無用の長物になっただけでなく、場合によっては超大国連合の壊滅的な制裁行動の対象になるリスクを冒す根源にもなりかねない核兵器を開発・保持など、到底間尺に合わない、という方向に核保有国を誘導するのが筋道だろう。

 しかしそんな前提は、国連決議どころか、暗黙の了解事項としても、まったく存在していない。存在しているのは、反核・核兵器不拡散を声高に唱え、その一点だけを求める国際条約の制定と、その批准を進める運動だけだ。その点だけを実現するのは、実は現に核兵器を持っている国、とりわけ数多く保有する5安保理常任理事国、その中でも常に自国の勢力圏拡大を陰に陽に策して動く中ロと、後発組では北朝鮮の、現・元共産主義の権威主義独裁・非民主主義国の断然たる軍事的・暴力的優位を、永久的に固定する効果しか持ち得ないことは、自明ではないか。

始まりはソ連の時間稼ぎ

 そもそも反核大衆運動は、アメリカがヒロシマ・ナガサキに原爆を落として対日戦争を終結させた時点で、すでに地上の核爆発実験には成功していたが、運搬可能な小型化・兵器化にはまだ多くの課題を残していたスターリン独裁統治下のソビエト連邦が、アメリカに追いつく時間を稼ぐ狙いで、1950年に世界平和評議会なる御用組織をつくり、その名でストックホルム・アピールと称する原爆禁止の大衆的署名運動を、世界規模で展開しようとしたのが、きっかけだ。

 この年にスターリンは、対ヒトラー・ドイツ戦争のためにアメリカから膨大な支援を受ける条件としてやむなく呑んだ、国際共産党の統一司令部組織=コミンテルン・第3インターナショナルを解散するという協約を、一方的に破棄して、コミンフォルム・国際共産党情報局を新設した。その最初の活動が、世界平和評議会による原爆禁止署名運動だ。

 原爆許すまじ、の署名運動は、被爆国日本の東京・杉並の婦人たちから始まった、というのは、真っ赤な嘘、完全な捏造だ。当時の日本共産党は、徳田球一・野坂参三らの主流派と、志賀義雄・神山茂夫・宮本顕治らの反主流派に分裂して抗争中で、最初にストックホルム・アピールを大衆運動化したのは、国際派と呼ばれていた反主流派・宮本系の、全学連の学生党員たちだ。後れをとった徳田主流派は、学生をマネて始めた杉並の地域婦人の運動をネタに党員作家・作詞家・作曲家を動員してストーリーをでっちあげ、テーマ・ソングを作り、党員・シンパや新聞社や雑誌の編集部に潜む党員にも指令して大宣伝を展開した。不勉強なテレビ台本家やルポライターなどには、その後70年たったいまもこの嘘を信じているのがいるから驚く。

 ストックホルム・アピールの署名運動は、日本以外にはほとんど広がらなかったというが、それはスターリン・ソビエトが仕組んだ〝第五列臭〟が余りにも強烈だったせいだろう。原爆禁止運動は、1950年代のソビエトの原水爆の開発成功、それを受けた63年の米英ソ3国による部分核実験停止条約の成立を経て選手交替し、64年10月の東京オリンピック開催中に初の原爆実験をぶつけた共産中国による、反米運動の〝目玉商品〟になった。

 土井たか子委員長時代に社会党系の反核運動家が唱えた、中ソの核は平和を守る核、アメリカの核はヒロシマ・ナガサキの人殺しの核、という珍妙なスローガンがあったが、さすがにここまで明々白々、天真爛漫に〝列〟の中に姿を隠して全体を操る謀略の元締めに対してヨイショをすれば、完全な逆効果。元締めをフンドシ一丁の丸裸にして、化粧回しをつけて隊列の先頭に押し立て、銀座通りを練り歩かせるような笑い話になってしまう。これにはさすがに土井たちよりは知能指数が高い宮本・不破哲三が率いる共産党も呆れ返り、原発禁止運動団体が共産系の本流と社会党系の支流に分裂することにもなった。

いまだ迷妄、一掃できず

 「第五列」はアタマが弱くては務まらないが、「第五列的なもの」はアタマがフツーに働いていればなるはずがない姿だ。オレオレ詐欺という極めて単純な手口が、いろいろ工夫した〝変異株〟が出現するとはいえ、世界広しといえども日本ほど簡単に引っ掛かる被害者が多い国は、他にあるまい。そう思われるほど、他人の言説を信じやすい国民性。世界唯一の原爆被爆国という要素があるにしても、反核・核不拡散というお題目が、これほど大手を振って世間に罷り通る状況は、不思議千万だ。今回の〝プーチンの戦争〟はさすがにそうした迷妄を一掃したはずだ、と思いきや、必ずしもそうなってはいない様子なのには、唖然とするほかない。

 仮にも国連の安保理会常任理事国のロシアが、国連憲章クソ食らえで侵略戦争を始めたのだ。それをやめさせようという安保理決議を、ロシアが常任理事5カ国だけに与えられる拒否権を行使して、止めたのだ。それだけでなく、ウクライナに侵攻した最初の段階から、いざとなれば国際条約で禁止されている生物・化学兵器だけでなく核兵器も使うぞ、と恐喝し続けているのだ。

 さらに戦局がロシアの思惑通りには全然動かず、国土防衛に挙国一致で善戦するウクライナに対して、アメリカを筆頭とする大半の国連加盟国が、最新鋭武器や通信システムから生活物資や資金などの支援と、侵略戦争を激化させるロシアに対する経済制裁を強めることに苛立つプーチンは、こともあろうに全世界を相手に、核戦争になってもいいのかと露骨な脅迫を始めているのだ。

〝信者〟たちの果て無き言動

 ソビエトが崩壊するまでその構成国だったウクライナには、東西対立の構造の中で、いざとなれば西側の軍事同盟である対立するNATO=北大西洋条約機構の加盟諸国を攻撃するための核兵器が配備されていた。ソビエト崩壊、ウクライナの独立回復後、この保有核兵器は、米英が加わるロシアとの協議を経て、廃棄された。もしもウクライナがあのとき廃棄に応ぜず、いまも核兵器保有国のままだったら、果たしてプーチン・ロシアは、今回の理不尽極まるウクライナに対する侵略戦争を、仕掛けてきただろうか。

 海路は南シナ海を起点にインド洋・スエズ運河・エーゲ海・黒海と渡り、陸路はシベリア鉄道ルートと中東から北上する高速道路と鉄道を使って、いずれもウクライナに達する〝一帯一路〟を目論む中国は、9年前の2013年にウクライナ政府と友好協力条約を結んでいる。その中には、ウクライナが外敵に武力攻撃されたとき、中国は自らが保有する核兵器でウクライナの安全確保を図る、という条項だか含意だか、表には出ない口頭の申し合わせだかが、あったといわれる。

 しかし今回の〝プーチンの対ウクライナ侵略戦争〟に際して中国は、直後の国連安保理の即時戦闘行為中止決議に棄権したし、ロシアへの経済制裁には反対し続けている。為替決済システムからの排除に関しては、裏では中ロの銀行同士間のドルの決済や流通が行われている、という風聞が絶えない。少なくとも中国がウクライナに対する〝友好協力〟で誠意を欠いていることは、明白だろう。

 これだけの事実が積み重なっているにもかかわらず、日本に多い反核・核兵器不拡散の〝信者〟たちは、相変わらず中ロの核優位を確保・擁護しようとする「第五列」活動を、続けようというのか。左翼思想でこり固まった幹部級以外の、あまりものごとを深く考えない〟善男善女〟たちは、連日テレビ画面に流れるロシア軍の兵士の暴虐を結果的に容認することにつながる「第五列的なもの」としての言動を、まだ続ける気なのだろうか。

(月刊『時評』2022年7月号掲載)