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俵孝太郎「一戦後人の発想」【第130回】

トンデモ〝政策〟を斬る 国民をなめるな、大半の国民は政治家や役人よりずっとマトモだ

ニュースや新聞を見る、読むにつけ、政治家や役人の劣化を痛感してやまない。〝新・新幹線〟やら〝新築家屋の太陽光パネル設置義務〟やら〝贈与税と相続税を組み合わせる〟やら、いずれも呆れて言葉もない。このトンデモ〝政策〟が飛び出す背景には思考能力の喪失・停止に陥っているからというほかない。

ロ、中の比ではないものの・・・

 世の中には、ホントかね、と思わず首をひねらざるをえないような理解不能な〝政治的決断〟が突発したり、まさか、と思わざるをえないような奇妙奇天烈な思いつきが大真面目な〝政策〟として打ち出されるようなことが、間々生じる。最近は異常気象の影響なのか、そんな状況にぶつかることが、内外ともに、以前にくらべて格段にふえてきたようにも感じられる。

 その極限がヒトラーのゲルマン民族統一主張に通ずるスラブ民族一体主義と、スターリンを丸写しにしたとしかいいようのない暴虐無比の武断体質を露呈した、プーチンが仕組み、仕掛けたウクライナ侵略戦争だろう。長い人類の歴史の中でまったく無縁だった南太平洋・インド洋や中東・欧州に、徹底的に自分本位の横柄さで乗り込もうとする、習近平の一帯一路構想もこのクチで、東西の横綱を張れるだけの無茶苦茶さはある。

 それらにくらべればスケールがうんと小さくなるが、日本国内の最近の珍政策にしぼると、まず開業したばかりの西九州新幹線、平たくいえば長崎新幹線だ。

 66キロほどの海沿いのルートを、時速200キロのスピードで20分ほどで走り抜けるそうだが、3分の2はトンネルで海辺の風景が見られる時間は僅かだという。なにより問題なのは、既成の九州新幹線とは直接つながっておらず、福岡や熊本・鹿児島から出向く場合、いったん新鳥栖で新幹線から在来線に乗り換え、佐賀県をほぼ横断して県西部の武雄温泉駅まで行き、そこで再び新・新幹線に乗り換えて長崎に行く、ということだ。

 バカバカしいほど面倒臭く、福岡からなどは、待ち時間も考えれば在来線の特急で一足飛びに行くほうがよほど早く、かつ楽そうだが、それでも待望の新幹線が長崎にも来た、ということで地元は大歓迎しているらしい。全国の鉄オタすなわち鉄道の熱狂的マニアも大興奮状態のようで、営業初日の始発列車の指定席はたった10秒で完売したという。

切れっ端は切れっ端のまま

 しかしそんなブームは、たちまち冷めるに決まっている。他県に新幹線が通っているのだからウチにも欲しい、と知事や首長、地元選出の国会議員や地方議員が超党派で声を揃え、観光業界を中心に地元経済界や地方マスコミも大合唱に加えて猛陳情を重ねた末に、僅少ながら予算を取りつけた。そしてできるところから細々と工事をはじめて、それでも一定の既成事実を目にできるところまで漕ぎ着ければ、在来線で間に合っているとか、どうせ素通りされるだけの新幹線にはカンケイない、と乗り気でなかった沿線の地域も用地提供などで協力をしてくれ、いつの日にか計画通りに全通するはずだ。こういう目論見で文字通り見切り発車したのだろうが、そう甘くはいくまい。

 本線につながる支線でも、そこからさらに延びる枝線でさえもなく、盲腸の先端が小さな肉片として腹の中のどこかに紛れ込んでいるような、まことに不思議で不自然な〝新・新幹線〟だ。地元では、こんな奇妙な状態を長いあいだ放っておくわけにいかないから、意外に早い時点で九州新幹線につながるだろうと楽観しているかもしれないが、地元のJR九州は黒字経営を維持しているとはいえ、現にこの〝部分開通〟でも長い歳月がかかったことが示すように、自力だけでは建設費を賄いきれない。地元自治体の負担規定もあるが、それもつまるところは国の交付金や補助金頼みだし、2022年3月末で赤字国債700兆・建設国債285兆・復興債6兆、合計990兆円の累積債務を抱え、さらに債務が積み上がっていく一方の国家財政に、そんな道楽に予算を回す余裕なんか、全然ない。盲腸の切れっ端はたぶん切れっ端のまま、延々とその異様な姿を天下に晒し続けていくことになるのだろう。

半世紀後に反芻される悲哀

 話題を変えて、もはや高齢で中央政界への復帰はもちろん、これ以上の再選も望めなくなった小池東京都知事の、ここらでレガシーを残しておこう、という思いつきからか。それとも都庁のヤクニンないし都議会の一部議員の、トンチンカンな〝提案〟がモトになったのか。こんご都内の新築家屋には太陽光発電パネルの設置を義務付けよう、という構想があり、そのための東京都条例案が近く都議会で審議される、という。

 この話はまずテレビで流れた。筆者が反射的に思い出したのは、もう半世紀も昔のことになるが、多くの家々の屋根にブリキ製の、浅いがタテ・ヨコは結構長い、つまりそう重くはなさそうだが表面積は広い、ガラスのフタをした水槽が乗っかっていた光景だ。水槽の高い位置には、一定の時間を置いて水が流れる水道管がつながっている。下の隅っこには、水槽に溜まったぬるま水を一定の間隔で家の中の浴室に流す、ホースがぶら下がっている。要するに、日光の熱で暖められた水を風呂桶に流し、湯沸かしのガス代なり電気代の負担を軽く済まそう、というわけだ。

 この〝装置〟を個人住宅向けに手広く売り出した会社があって、同時期に大流行していたヤクザ映画で主演を張り続ける役者の、××ソーラーじゃけん、というドスの利いた広島弁だか九州弁だかの声音のCMが、白黒テレビからしょっちゅう流れていた。

 高度成長が軌道を走り出していた当時、ということは裏返すと高度成長の成果がまだ目に見えて存在してはいなかったこのころ、都心部を抜けた電車で郊外の新開地に入ると、一変して旧来の田んぼや麦畑が俄か仕立ての造成宅地になった一帯に建っている小さい屋根の、甍の波ならぬソーラーの波が続くことになる。そうしたとき、この小さい家の入手に充てた住宅公団融資の返済のために長い歳月、苦労し続けなければならない同年配のサラリーマンの悲哀を、しみじみ察せざるをえなかったものだ。

 それと通ずる姿を、高度成長の終点のバブルが果ててすでに3分の1世紀以上が過ぎ、〝停滞の平成〟をとっくに終わったいまの日本で、見なければならぬ。かつては巨大な国土に貧しい人口がひしめく未開の隣人国で、早く工業技術を伝授して一本立ちさせてやらねばならぬ、と思っていた共産中国に、世界第2位の経済大国の座を奪われて久しい、落魄斜陽の日本国の首都の屋根に、中国製の太陽光発電のパネルが並ぶのを、呆然と見ていなければならぬのか、という情けなさには、ひとしお苦汁を感じざるを得ない。

 こうした心情は、槿花一朝の夢に終わったとはいえ〝焼跡・闇市〟から繁栄社会を築きあげるべく、苦闘を続けた世代よりはずっと下で、さしたる苦労もなく戦災に逢わなかった芦屋で育ち、まずその地で政治の世界に入り、上京してかつてはダイコンの名産地だったネリマを選挙区にしていたコイケ如きに、分かるわけはなかろう。どうせ〝プーチンの戦争〟に起因する世界的な石炭・原油・液化天然ガスのエネルギー供給不安と、それに由来する電力料金の高騰・物価の上昇に対処する妙案として、東京を太陽光発電都市にしようという〝革新的施策〟は、きっと都民・国民から歓迎される、と思って言い出したのだろう。しかしコイケやその取り巻き連中に、温水ソーラーと太陽光パネルが二重写しになる違和感・嫌悪感を察するだけの感性・能力や、なによりも知識の持ち合わせがなかったと思うほかない。

読むほどに疑問が続出

 尤も、〝中国〟と聞くと胸が高鳴る朝日新聞のヨイショ感の強い囲み記事を唯一の例外として、大半はあまり好意的なニュアンスはなく、冷やかし半分の印象が強い新聞各社の記事によると、この〝義務〟は、施主つまり新築家屋の建主に課されるものでも、注文を引き受けた町の工務店に負わされるものでもなく、50社の主要住宅メーカーに限リ、業者側に求めることになっている、という。しかしたとえ建前上はそうなっていても、彼らの主な事業領域はマンション建設だろう。その場合は外壁全面にパネルを張り付けさせるのか。それともパネルを並べるために陸屋根にさせて屋上に置くのか。上の階に行くに従って細くなっていくシルエットのタワー構造で壁面に張り付けるとすれば、上空にも反射してヒコーキの安全をはじめいろいろ問題を起こすことになりかねまいが、その場合はどうするつもりか。疑問点が続々出てくる。 

 マンションは対象外で、最近は大手建設企業も手掛けるようになっているプレハブの個人住宅が中心だ、というふうに読める記事もないではないが、それなら固まって建てる建て売り住宅団地的な開発だけが対象なのか、1戸だけ建てる場合でも50社のどこかが関係していれば義務化されるのか、という疑問が出てくる。元請け・下請けが複雑に入り組み、施主にさえ、どの部分のどの工事をだれがどうしているのか、さっぱり見当もつかない建築業界で、大手は義務化、中小は関係ない、ということになれは、抜け道や不正はいくらでも出てくるだろう。もちろんパネルの大量生産国で、いまや国内市場は満杯、まとまった輸出先を探している中国との、癒着・利権の疑惑も、盛大に出てくるに違いない。そうした〝黒いコスト〟を含めて、費用は請求書にそれとなく紛れ込まされ、結局は施主が負担することになるのは明らかだ。

 それだけではない。パネルで発電した電気をどう、だれが所有する高圧線につないで、売電業者に回すのか。自家消費だけに回すとしても、その場合不可欠な蓄電装置一式の整備や置き場造り、用地代を加えるとどれだけのコストがかかるのか。機械ものにはメンテナンス費用も償却も、耐用年数を過ぎたあとの更新費も、つきものだが、それらをきちんと計算したうえでも、この思いつきは長期的にペイするのか。疑問は尽きない。

 往年のぬるま湯づくりソーラーのさび果てた残骸の、いまも崩れかけた廃屋の屋根にへばりついた姿を、たまに目にすることがないでもない。屋根の上に設置を義務づけた太陽光発電のパネルも、いずれはこうなる運命を辿ることを考えるだけの思慮は、コイケや朝日新聞には、欠落しているのだろう。

贈与税と相続税のミックス?

 その次の話題も、テレビの〝情報番組〟で出ていた話で、当家で購読する産経・読売・朝日の3紙にはきちんとした記事はなかったように思うが、贈与税と相続税を組み合わせて新しい経済活性化策、わかりやすくいえば消費刺激策にしようというアイディアが、総理官邸周辺で出ているという。

 いずれ年末の次年度予算編成作業の中で浮上してくるのかもしれないが、要するに、現在2000兆円近くに達しているともいわれる個人金融資産の7割以上は、65歳を超えた高齢者が握っている。彼らの関心はいつ終わるか、短いか長いか、まったく見通しが立たない、立つわけもない、老後の生活設計に一点集中している。家の中はとっくにモノが溢れていて、終活で整理する気はあっても、生活必需品以外には消費する意思も体力も必要もない。消費拡大・景気政策とは無縁な存在なので、彼らの抱える〝死にガネ〟を若い世代に移転させ、消費させる狙いらしい。

 現行税制でも金融資産は年間110万円を限度に無税で贈与できる。贈与する相手の制限は特にない。ただし親から子に、祖父母から孫に、といった関係で何年もこの規定を繰り返し使い続けると、単なる贈与ではなく相続税を逃れるための意図的な資産の移転行為と認定され、累次贈与として時効ギリギリまでの分を、一括して高税率の贈与税でごっそり取られる羽目になる。

 ただし例外として一定の範囲内で子や孫の学資用に限り、110万の枠を超える金額を子なり孫の名義で金融機関に預金しておくことが、認められるようになっている。この制度を所定の手続きを踏んで利用すれば贈与税も、利用期間内に相続が発生したときの相続税も、かかることはない、ただこの場合は、預金は入学金・授業料など限られた学費の決済にしか取り崩せず、金融機関に塩漬け状態で凍結される。名義人の子や孫が自由に引き出すことは、不可能な仕組みだという。

マイナンバーカード普及に狂奔するワケ

 フリーの文筆業・電波出演者・講演者として半世紀以上を生きた筆者は、税金は身に降りかかる災難の一種と心得、事務所も持たず秘書も雇わず、専業主婦の家内にスケジュール調整をはじめ税務処理以外の一切の事務を委ね、必要経費を積み上げるためのさまざまな領収書のコレクションもせず、税務署が所得の申告資料に基づき涙金式に認める必要経費に甘んじて、彼らが勝手に吹っかけてくる税金を、持ってけドロボー、と黙って引き落とされるままにしていた。

 おかげで、つい最近になって50歳目前の長男がいったことだが、彼が高校生時代、いまはなくなった高額所得者の公示制度で筆者が東京国税局管内の学者・文化人中の最高額納税者としてスポーツ新聞の一覧表に載り、登校したらクラスメートに盛大にイジられて大いに閉口したことがあったそうだ。

 一切の〝節税〟行為と無縁に過ごし、現に孫に対しても顔を合わせれば多少の小遣いを渡すことはあっても、それ以外のなんの手立ても講じていないが、それはさておき、テレビが伝えた画策が現に進んでいるとしたら、これは不見識・不料簡の極というべきだ。

 これもテレビでの流説に過ぎないが、老人から若者へのこうしたカネの流れは税務署がきちんとデータとして把握しておき、相続が発生したときには相続財産に計上して事後的に総合課税することで、結果的に不公平が生じないようにするという。なるほど、だから政府がシャカリキになってマイナンバーカードの普及に狂奔し、銀行口座の番号登録を含む手続きをすべて完了すれば2マンエン相当のポイントを賦与するとして、未登録の国民を釣ろうとしているのか、と納得したが、実に間抜けで、論外の沙汰というほかない。

確保した世代から奪い、費消世代に移転させる矛盾

 老人から若者にカネが移転すれば、老人の資産は減る。それでも相続税が発生するほどの遺産が残っていれば課税の話も出うるが、残っていなければ相続税は発生しない。

 移転先の若者にとって見れば、使うことで景気を多少ともよくしよう、という政策意図で生まれた制度の対象になったのだから、政府のご期待に添うためにも、盛大に使おうとするにきまっている。使えば当然ながら受け取ったカネは消えてなくなる。スッカラカンになったうんと後になって、あのとき転がり込んだカネの分を合算して相続税を払え、といわれても無い袖が振れるわけがない。そんな簡単な理屈もわからないほど、いまどきのヤクニンのアタマは悪いのか。それが認識できないほどキシダのアタマも空っぽなのか、こういわれても仕方あるまい。

 そもそも岸田首相は、経済の成長力を確保するために分配政策を重視し、勤労所得の引き上げを図るとともに、一定の資産所得も得て安定した豊かな生活ができる、〝新しい資本主義〟を実現する、と公約していた。それなら長い歳月をかけて積み重ねられてきた資産を、消費拡大のために、しっかり確保している世代から奪い、棚からボタ餅式に費消してしまう世代に移転しようというのは、矛盾ではないか。それだけでなく、〝異次元の金融緩和〟などと称して、旧約聖書の時代から続く、借りたカネには適正な利子をつけて返済しなければならぬ、という人倫の基本を否定して、ゼロ金利を敢行したどころか、マイナス金利などという荒唐無稽までやらかしたアベノミクス=黒田日銀体制を残したまま、〝新しい資本主義〟もないものだろう。

 コロナ禍が引き起こすロックダウンの影響をモロに受けた経済活動の低迷によって余儀なくされた金利の異常低下からアメリカやEUが着々と適正化する中で、日本だけが〝異次元〟の低さにへばりついたままになっているのは、黒田日銀の頑迷が大きく作用しているが、それなりのやむをえない背景も、まったくないというものでもない。

 人口構造が完全に自然減、つまり年間の死者数のほうが出生数より多い状態が定着し、当面は高齢層の比重が相対的に増し、若年層は減る。しかしいずれは総人口がじわじわと減り、このままの人口動態のカーヴを延長すると、3000年には日本人は15万人しかいなくる勘定だ。それなのにアベノミクスにせよ〝新しい資本主義〟にせよ、いまだに成熟ではなく、旧態依然の〝成長〟をカンバンにしている。そこに問題の根源があるという以前に、出発点の認識錯誤があるというほかないのだが、そうはいっても、目前にコスト高・エネルギー高の中で売上減・資金難に悩む中小企業がある。これでは金利の欧米並みの正常化は、いますぐには困難だ。その点は理解するとしても、そんなに若者にムダ使いさせたいのか、といわざるを得ない面は、大いに疑問が残る。

相続税に無縁な連中の浅知恵

 思えば親の地盤・看板・カバンを引き継いでラクに政界を渡る〝二代目政治家〟が問題になったのは、もはや遠い昔の話。宮沢喜一や河野洋平のころから、世襲政治家は三代目が中心になった。元首相のアソウもアベも、現首相のキシダも外相のハヤシも三代目。自民党と統一教会の関係が問題にされるのか理解できない、といったフクダに至っては、祖父も父親も首相だった三代目だ。

 コイズミは、二代目は婿養子だったが、三代目が首相で、いまの代議士は四代目だ。そういえば政治家稼業四代目の元祖は、初代は衆議院議長の和夫、二代目は首相の一郎、三代目は堅気の大蔵官僚で終始した威一郎だったが、四代目は〝日本国の災厄〟民主党政権のルーピー首相由紀夫の、鳩山家だ。この家は、由紀夫の弟で亡くなった邦夫の遺児が五代目に入っている。

 その民主党の系譜を継ぐ立憲民主党の長老の菅直人は、必ずしも政治的習練を積んでいるとは見えない息子を親子代議士にしようとして、失敗したことがあった。その菅の棒組みの江田五月は裁判官として自立していたのに党と選挙区組織の都合で二代目議員にさせられた。そんな事実も知らない智の面では並以下の立民の女性代議士が、キシダが多くの前例に倣っていずれ議席を継がせるだろう息子を秘書官にしたのを、本人同様に智識並以下のテレビの〝ニュース芸人〟が持ち上げてくれるだろうという狙いからか、議政壇上で大見得切って批判して見せたのは、かねがね政府自民批判がブーメランのように我が身にハネ返ってくるこの党の、体質丸出しと失笑するほかないマンガ的シーンだ。

 与野党を問わず、政治家が地盤・看板を引き継ぐのに相続税はかからない。たいていの資産の継承は見逃さない税務当局でも、政治資金という名のカバンの相続には口も手も出さない。そういう仕掛けに狎れきったセイジカとしては、親や祖父の資産を子が引き継ぐのはごく自然の、かつ当然のハナシだと思っているに違いないし、そうした資産を子が使うのに、なんの抵抗もないだろう。

 というより、フツーの国民には贈与税という制度が垣根になっているらしいが、そこさえ多少手心を加えてやれば、カネも地位もオール・ハッピーで天下の回りものとして動いて、世の中の経済も景気もよくなる、と気楽に考えているのではないか。そうした政治家に直言するヤクニンも少なくなっているし、そもそもヤクニン自体、最近は万事が甘ったれが横行する時勢の反映か、採用時点からレベルの低下が問題になっていて、マトモに物事を考える能力を失っているのではないか。 

 別途、小渕政権いらいの負の遺産ともいうべき、財政規律無視の〝現ナマ総バラ撒き政策〟を迫って止まない〝おねだり党〟公明との連立をいつまで続けるのか、という論点が残るが紙数が尽きた。これは別の機会に。

(月刊『時評』2022年12月号掲載)