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俵孝太郎「一戦後人の発想」【第132回】

憲法をめぐる風向きの急激な変化-当然至極のようでもあり、いまさらの感も強くあり、ウワゴトいまやカラ念仏だからこそ急がれる改憲-

ロシアによるウクライナ侵略以後、当然ながら日本で自国防衛に対する機運が高まり、これも必然の流れで憲法論議も大きな転換期を迎えつつある。隣接する独裁国が不穏の度を増す中、護憲を錦の御旗とする万年野党もほぼだんまりだ。また憲法問題に関連して、信教の自由と緊急立法との相関についても問題を指摘しておかねばなるまい。

転向の様相も当然

 日本国憲法をめぐる政界・世間の風向きが、このところ短期間のうちに大きく変化したように見受けられる。それに連れて法曹界・学会・あるいはメディアなどの関連・隣接領域にも、動揺・転向の様相が見え始めた。

 それはそうだろう。なにぶんにも1947=昭和22年に施行されて満75年、4分の3世紀。日本の国力も国際社会に占める位置も、国民の意識や生活も、なにより世界中の力関係も大きく変化したにもかかわらず、ケンポーだけは異様に重視され、不可侵の聖域のように持ち上げられ、化石の像を信心する密教のように扱われて、激変する内外情勢、とりわけ科学技術、中でも通信情報技法が急速に進化・発展・変容する中で、博物館の収納庫や巨大な冷凍冷蔵庫に入ったままのような、硬直した姿を続けていた。いまさら変えても手遅れの観は免れないが、いま変えなければ世界から置き去りにされても仕方ない瀬戸際、最後の転換期にきているのだ。

 そもそも日本国憲法は、理非は別として国力・軍事力のレベルで比較にならぬほど強力なアメリカを相手に、いささか嵌められた面もあるとしても、無謀な戦争を吹っかけて完膚無きまでにやられ、国土全体を完全に軍事占領されて、軍政統治下の異様な状態で一字一句、占領軍の命令のままに書かされた詫び証文だ。そんな怪文書をいままで後生大事に抱えていたのがどうかしていたので、いま風向きを大きく変えるのは当然至極の話だ。

論議の中心は第9条改定

 〝敗戦憲法〟改正論が過去になかったわけではない。衆知のように、敗戦・被占領という異常事態が終わった直後からの70年間、〝自主憲法〟制定論は常に政治の中心課題となってきた。1960=昭和35年に当時の自由党と民主党の保守2大政党が合同して自民党になって以降、通算しても4年に満たない2回の下野期間を別とすれば、ほぼ万年政権党の自由民主党は、常に「自主憲法制定」の6文字を立党意義を宣明する「政綱」の筆頭項目に掲げてきた。

 ただその半世紀を超える長い歳月、日米同盟を機軸とした自由経済・民主政治の路線を堅持する自民党政権が提起する改憲論議の中心は、制定過程をめぐる自虐的詮議を除けば、ほぼ前文および戦争放棄・軍事力不保持・交戦権否認の、第9条改定にしぽられてきた。これに対し万年野党のとりわけ左半身は、思想的・資金的な後ろ盾であり、米ソ冷戦の一方の中心であるソビエト・ロシアの代弁者として、徹底的な護憲を主張し鋭く対立。国会の場などでこの問題を、他の政治・政策課題とのバランスを失してさえも、声高かつ執拗に断固守るべき不滅の真理と主張して、選挙のたびに有権者国民に訴え続けてきた。

 東京大学法学部憲法学講座を頂点とする学界、左翼弁護士が表舞台を占める法曹界のボスたち、左翼が主導する日教組の支配下にある大半の各級・各種教育機関も、憲法前文や第9条を不滅の聖典であるかのように祭り上げ、それを至上の理念として尊重するよう、執拗に学生・生徒に刷り込んできた。紙面内容や報道水準は極めて貧弱でも声はでかい偏向新聞や、それに引きずられる税金まがいのカネで成り立つ準国営放送を筆頭のテレビも、ひたすら護憲勢力にヨイショし続けた。

 その結果、一定の範囲内に極度にマインドコントロールされた〝信徒〟が存在することは事実だが、しかし各種の選挙の結果が端的に示すように、有権者国民の大半は護憲を叫ぶ政党をロクに支持していないのも明白だ。それにもかかわらず、改憲を党是とする自民党がほぼ政権を独占してきたのに、事実上改憲を不可能にする条文の存在も作用して、〝占領憲法〟は放置され続けてきたのだ。

風向きを変えたウクライナ侵略

 そうした風向きが明らかに変わってきたのは、いうまでもなくプーチン・ロシアが突然起こしたウクライナへの侵略戦争と、その凶悪無残な実相の反映だ。長く惰眠をむさぼってきた多くの日本国民は、連日のテレビ映像でロシア兵の非情極まる巨大破壊・集団虐殺の実情を見て、このままではいけない、いま目を覚ましてそれ相応の備えを整えなければいつウクライナと同じ目に遭うかわかったものではないという思いに駆られ、その思いから憲法への迷信を一気に解き放った。

 ソビエト体制崩壊後、落ち目の三度笠を地で行くロシアだが、それでも広大な領土を持ち、世界最大量の核兵器を保有する軍事大国だ。なによりも侵略の元凶の独裁者プーチンが、キチガイに刃物よろしく、ウクライナでロシアが劣勢に陥ればいつでも核兵器をぶっ放す、と公言し続けている。プーチンは、極貧の辺境地帯から駆り集めた、戦闘経験はおろか軍事訓練も絶無だが、太古以来変わらぬ大自然の中で生き物を思うままに殺し皮を剥き肉を食らって生き延びてきた蛮族たちや、刑務所から従軍を条件に釈放した受刑中の凶悪犯罪人をかき集め、急ごしらえした野蛮・獰猛・邪悪な雑兵集団が、土足で踏み込んだ侵略先で、破壊・放火・殺人・強姦・誘拐・奪略・強盗など、ありとあらゆる犯罪を積み重ねるのを、参加報酬に加えたボーナス、戦地でのモチベーションを高める手段として、黙認というよりむしろ鼓舞激励しつつ、ウクライナに送り込んだのだ。

 彼ら侵略者が加える受難の惨情が連日テレビに現れ続けるウクライナは、広い領土の西端に位置するロシアの隣国だが、思えば日本は真逆の東端に存在する隣国だ。北海道東部の目と鼻の先に、敗戦のドサクサ紛れにスターリン・ソ連が掠め取った北方領土が存在する。その北方領土にいた兵隊や兵器の一部がウクライナに回されているという。事実ならテレビに映る残虐行為を働く暴虐非道の兵隊が本来の勤務地に帰って独裁者の命令一下、北日本に攻め込んできても不思議はない。

敵意むき出しの北朝鮮、不気味な中国

 侵略の報いで国際社会の経済制裁を受け、タマ切れの不安に脅かされているロシアに、北朝鮮が弾薬を提供したという情報もある。その北朝鮮は、このところやたらと大量のミサイル発射実験を繰り返す潜在的核保有国であり、強権独裁者・金正恩は常に隣国・日本への敵意を隠そうとしていない。

 同じ隣国である中国も不気味だ。日本のODA援助の恩恵を多分に受けて、図体はでかいが中身は貧困だった彼らは、ひところ製造業を中心とする輸出経済で破竹の勢いを誇っていたが、いまや少子高齢化と基盤労働力の減少で低迷に向い始めている。その中で、アメリカが主導する侵略者ロシアとその協調国に対する経済制裁に組み入れられるのを恐れて、あからさまなロシアに対する軍事支援は少なくとも表向きは控えているようだ。しかし国連総会や安全保障理事会のロシア非難決議に際しては常に棄権や反対=拒否権に回る、プーチンの盟友・ロシアの同盟国であることもまた、隠れもない事実だ。

 ブーチン・金正恩と並ぶ独裁指導者である中国の習近平は、かつて日本の一部であり、いまは中国の一部とはいえ、政治体制も経済体系も民衆の意識も本土と異なって日本やアメリカと友好関係を続ける、台湾への侵攻・吸収を宿願としている。混乱する世界情勢の間隙を衝き、いつなんどき台湾有事を引き起こし、その飛ばっちりが日本にも及んでくるか、わかったものではない。

 さらに習・中国は、近代国際社会が積み重ねてきた国際法・交戦規定・通商や航海のルールなどに対する横紙破りの常習犯だ。〝一帯一路〟を唱え、アジア・太平洋から中東、さらにヨーロッパまでを勢力圏に置こうと野心を燃やす彼らが、核と人海戦術で知られる大兵力を振りかざして太平洋に進出すれば、日本は累卵の危うきに立つことになる。

漫然と過ごした小金持ち老人

 思えば日本は、強大なヤクザ集団の頭目の大邸宅と、家構えは小さいが暴力性では突出したヤクザ一家を隣組に持つ、難儀な位置にある国だ。かつては結構ヤンチャだったし、そこそこ裕福そうな時期もあったが、それは昔話。いまやこじんまり、ひっそりと暮らす小金持ちの老人のような身だ。それなのに敗戦後77年、あるいは現行憲法下の75年、急速に変化する周囲に対する強い警戒心を持たず、遠い太平洋の対岸にある旧敵国のアメリカと同盟関係を結んで、彼らの一方的かつ全面的な庇護を頼って漫然と過ごしてきた。その姿は、まさに〝占領憲法〟を通じてアメリカが日本に押し付けた〝秩序〟だったのだが、アメリカがいまでもそれを覚えているのか。自分が蒔いたタネの結果をどう記憶して落とし前をつけるつもりか。彼らの国力も衰えたいま、疑わしいというほかない。

 プーチン・ロシアの軍事侵略に抗して挙国一致で戦うウクライナには、現に世界の同情だけでなく、アメリカやNATO諸国を中心とする最新兵器も、より広範な日本も加わる自由・民主主義国家からの資金や食料の援助も、集まっている。それらは大きな力となって、鎧袖一触、短期間でウクライナを屈服させられるというプーチンの思惑を砕き、むしろロシアを敗勢に追い込みつつある。

 しかしそうした支援は、ウクライナの国家と国民が、自らの身を切り血を流し、犠牲を厭わず断固戦い抜く姿を示し続けているからだ。自力で侵略者に立ち向かい、独立を守る気概と姿勢を見せない国家・国民に対して、世界のどこからも同情も、まして援助も齎されるわけがない、という冷厳な事実を、大半の日本人も骨身に染みて知るようになった。

万年野党も一様に沈黙

 いまあらゆる調査機関の世論調査で、防衛力・反撃力の飛躍的強化、防衛予算の大幅拡充に対する賛成が、いずれも過半数を超えるようになっている。憲法を盾にとる反対論はまったく耳にしなくなった。これは大変な世論の変化というほかないが、そもそも〝憲法9条に照らしてどう思うか〟という設問自体が、世論調査の項目に入らなくなっている。

 いままで防衛というと護憲を強く打ち出してきた多くの野党も、憲法を使った防衛力強化論への疑義の表明や反対を、少なくとも表立っては唱えないようにしているように見える。有権者国民がウクライナの惨状を連日テレビで直視する中で、憲法前文や9条なんかをヘタに持ち出したら、それでなくても細り続けている国民の支持をより大きく失うことは避けられないと、その点は自身の議員バッジや歳費の〝安全保障〟を最優先させる万年野党は、よくわかっているのだろう。

 思えば7年前の安倍晋三政権下で〝安保法制〟が国会の中心テーマになったとき、すでに北朝鮮の核・ミサイル問題も、中国の国際海洋秩序に対する横紙破りも現実化していたにもかかわらず、憲法を振りかざす野党の抵抗はまだ健在だった。たしか参議院の委員会審議で、民主党議員が速記者席を飛び越えて委員長に掴みかかる旧社会党左派の常套的演技を、テレビに写させていたものだ。

 しかし今回岸田政権が〝安保3文書〟すなわち「国家安全保障戦略」「国家防衛戦略」そして佐藤栄作政権いらい5年刻みに更新してきた中期防衛力整備計画(中期防)を「防衛力整備計画」に再編し、安倍政権いらいの懸案だった〝敵基地攻撃能力〟を、日本が攻撃を受けたときの〝反撃能力〟とより明確化したこと。中期防いらいの〝基盤的防衛力〟という表現を〝装備の充実〟〝継戦能力〟と明記して、とかく軽視されてきた弾薬・ミサイルの数的増強を明記したこと。さらに中期防ではGDPの1%を基準にしてきた防衛費をEU並みの2%に引き上げると踏み出したこと。そのため当面5年間で総額43兆円が必要としたこと。これらに関して憲法を論拠にした抵抗や反対論は出なかった。

憲法学界もだんまりを徹底

 目立ったのは、与党の一角を占めてはいるが護憲派で中国寄りの公明党が、日本の安全保障戦略上の〝脅威〟に関する表現で、同盟国のアメリカと歩調を揃えて中国をロシア・北朝鮮並の〝重大な脅威〟とした点に関して、中国だけは一段軽く扱うように主張したこと。防衛予算は国債でなく税収から確保すべきだと原則論を唱え、暗に増税反対の世論を刺激して防衛費増額を抑えようと意図したと見られること。この2点だ。むしろ野党側は、立憲民主党議員が一連の安保重視や防衛予算増を、〝ロシアのウクライナ侵略のドサクサに乗じた火事場泥棒〟と、彼らの品性に見合う毒づき方をしたことくらいだった。

 2年前の菅政権で、税金で報酬が出る会員の身分の任命方針に対し、政府に不満を並べ立てた学術会議は、軍事技術につながる研究は禁止、という古い旗印を掲げ続けて、いまや通信技術やコンピュータ開発ひとつとっても論外、時代遅れのナンセンス、と世間の嘲笑を買ったものだ。その学術会議を筆頭とする学界、ことに憲法学界も、今回はだんまりを決め込み続けた。

 彼らをはじめとする左翼野党・偏向メディアの真意が、もはや9条中心の護憲論は通用しない、と観念した結果なのか。それとも、プーチンのウクライナ侵略が余りに悪質で世界的非難の的になっているいまは、黙ってやり過ごすほうが得策だ、という戦術的打算に立っているのか。見極めには少し時間を置くべきだろう。国民の大勢はもともと空想論だった9条を柱とする憲法の〝平和主義〟の基盤は、いまやロシアが見せる暴力的な現実の前に砕け散ったとしても、まだ一部には77年続くマインドコントロールの残滓が抜け切っていないかも知れず、彼らはそこに期待をかけているかもしれないからだ。

信教の自由への規制は妥当か

 話題は変わるが、安倍元首相暗殺犯の〝犯行動機〟に関連して浮上した、旧統一教会の〝献金という名の信徒搾取〟をめぐる問題でも、ことは憲法の信教の自由や財産権の自由にかかわっているのに、この面の論議が政界でもメディアでも、微妙に避けられた印象がある。旧統一教会が多くの不当な所業を日本人信徒相手に強いてきた点は疑う余地がないとしても、それらは既存の刑事・民事の法制で対処されるべきで、いままで適切に対処されてこなかったのは明らかに問題だが、立憲民主党が自民党の一角に狙いを定めて持ち出し、偏向新聞・テレビ・週刊誌がそれに乗ってメディア・スクラムに発展させて掻き立てた集団心理に、岸田政権が過剰反応して泥縄式に事後法的な緊急立法で対応したのには疑問があるが、そうした議論は絶無だった。

 献金が問題だ、マインドコントロールで信徒に手段を選ばず法外な大金を出させたのは怪しからん、というが、法的問題は感情論では片付かない。寄進・奉納・法礼・布施・喜捨・芳志、いい方はいろいろでも要するに寄付・献金で、それなしには宗教は成り立たない。それを規制するのは、信教の自由という原則に照らして、妥当かどうか。

 信徒が親や配偶者・子供の資産や所得を勝手に献金すれば、本人は盗犯、それを唆したものは共犯として、刑法で処断できる。しかし自分の資産・所得を自分の意思で寄付するのは財産権の自由の行使の範囲で、法規制は容易ではないだろう。〝法は家庭に入らず〟という法格言があるが、これはゲマインシャフト=共同社会の典型である〝家庭〟はゲゼルシャフト=利益社会とは違う、ゲゼルシャフトを律する法律は家庭内の揉めごとに持ち込むべきでない、という考え方だ。

新規立法は冷静であるべき

 その原則に立てば、親が子供の収入を、妻が夫の資産を、勝手に教団に献金しても、あるいは親がいずれ自分が相続するはずの資産を教団に献金してしまって期待を裏切ったと子供が不満を抱いても、それは家庭内で解決すべきで、法律で規制したり裁判で争ったりするのは馴染まない、ということになる。

 しかし現実にいまの核家族、世代ごとに独立して生活する家はゲゼルシャフト化が進む一方だし、そもそも税制は家庭・家族単位でなく、あくまで個人の所得に対して個人に課税義務を負わせ、脱税も個別に罰則を適用している。そうした事実が示すように、法律は家庭や家族を分解して扱う。そもそも個人責任論は近代法の大原則で、集団責任論や家族連帯責任論は、前近代的な暴論に過ぎない。

 この点は前述したように旧統一教会の〝献金搾取〟も現行刑法・民法などの運用で対処すべきで、拙速な新法制定は罪刑法定主義にも個人の財産の自由にも反し憲法上の問題になりうる、という議論に直結する点だ。

 法律の条文は書かれた通り普遍的に機能する。Aには厳格に適用するがBは見逃す、ということはあり得ない。とはいえ法律の文言が、書かれた通り一様に読まれるとは限らない。誤読もあれば意図的曲解もあり得る。だからこそ新規立法は冷静であるべきなのだ。

 筆者も現に本稿でも憲法9条の呪縛に関して使ったが、マインドコントロールという言葉は多義多様で、法律の条文に書く性格のものではない。早い話が、メディアがスクラム組んで特定の対象をキャンペーンの名目で集団バッシングし、その結果一定の方向に読者や視聴者の関心や考え方が動いたら、マインドコントロールといわれても仕方なかろう。政党の政策アピール、とりわけアジ・プロ=アジテーション・プロパガンダ(扇動・宣伝)と称する左翼の常習手口も、マインドコントロールの一種だ。旧統一協会の巨額献金をめぐるマインドコントロール騒動は、言い出した立憲民主党とメディア・スクラム、統一教会の三つ巴のマンガ的合戦の様相を呈した。泥縄式事後法的緊急立法とはいえ、立憲民主党が法律の条文に、マインドコントロールの字句を入れろ、と騒ぐのを退けた岸田首相はじめ政府当局の姿勢は、当然のことだ。

献金、二世にまつわる問題点

 この問題に関連してもう一つ、別のポイントも指摘しておかなければなるまい。それは旧統一教会と類似した、あるいはそこまではいかないとしてもそれに近い様相を印象づけた、他の宗教団体へ向けた視線である。

 〝献金〟というか〝財務〟というか、いずれにせよ傍目には巨大と映る資金の恒例行事的な集金。豪奢な仏壇などを特定の業者から高額で買わせる〝霊感商法〟。多くの壮麗な寺社や〝会館〟の建設。信者が対象の墓地開発。外部からの批判に対する強烈な暴力的反撃体質。政治への接近。こういった点は多くの宗教団体にも見られたものだ。

 壷はともかく、仏壇は一目でその家の宗旨がわかるというほど、伝統仏教の仏壇や仏具は、菩提寺の勧める指定店で揃える慣習だった。とりわけ農村では仏壇の豪華さ、仏間の広さを競う、競わせる空気もなかったわけではないが、そうした言及は皆無だった。

 〝宗教二世〟というのも奇妙な話だ。子供は親を選んで生まれることはできないというが、逆にいうとだれもがなにかの二世・三世あるいはそれ以上だ。政治家二世は当たり籖で、親が特定教団の信徒なら宗教二世という名の被害者。こういう単純な図式は、いくらなんでも安易・安直すぎる。

 創価学会―公明党ブロックに対する視線の極端な逸らせ方も、配慮・忖度を通り越していっそ不自然だった。戦前に生まれた創価学会は、敗戦下の混迷と窮乏の中で勢力を急伸させる過程で、さまざまな問題を引き起こしたが、高度成長期に成熟し公明党を組織して政治舞台に加わる一方で、〝尖った〟面を抑制し摩擦を減らしていった。かつて〝王仏冥合〟といい公然と政教一致を唱え、創価学会の池田大作会長を創設者と謳った公明党は、いまや政教分離を明言する政権与党だ。

 一方、朝鮮戦争後の混乱する韓国で台頭した統一教会は、経済成長した日本をターゲットに、かつての創価学会に似た強烈な姿を展開して、現に強い批判・指弾を浴びている。

 両者の相似に当初から多少とも言及していたのは、大手出版社系の週刊誌に限られていた。一方で新聞やテレビは、意識的に避けたと疑われても仕方のない消極姿勢だった。それが果たして報道機関として適切だったかどうかも、これから問われることになる。

(月刊『時評』2023年2月号掲載)