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俵孝太郎「一戦後人の発想」【第135回】

日本共産党久々の〝勇姿〟『朝日』『毎日』の社説に食いつく 精一杯強がって見ても 国政選挙では敗北続き、志位体制は20年超え この間に党勢ほぼ半減、ジタルの活字政党

2月に志位委員長をはじめ日本共産党の幹部が身内からの批判を端に偏向新聞へ嚙みついたのは、最近凋落・低迷の一途をたどっている同党の、久々の〝勇姿〟と言えるだろう。とはいえ現幹部の体たらくでは交代論が出ても当然、それを社説で指摘されアタマに血が上ったのが真相ではないだろうか。

党幹部が連日名指し攻撃

 このところさっぱり党勢振るわず、たまに低調野党のご同輩・立憲民主党を揺さぶって共闘工作を仕掛けてみても、ほとんど成果につながらないで、ショボくれた姿ばかりを見せていた日本共産党が、久しぶりに颯爽たる〝勇姿〟を見せた。なんと『朝日』『毎日』両新聞の社説に対して、党幹部が記者会見の席上、連日にわたって名指し攻撃をやってのけたのだ。

 まず志位委員長が2月9日の公式記者会見で前日付『朝日』の社説に対し、「悪意がある」「あまりに不見識」「指図されるいわれはない」と糾弾したうえで、「悪意で党を攻撃する者に対しては断固として反撃する」とさらにヒートアップさせた。また田村智子政策委員長はその翌日の記者会見で当日の『毎日』の社説に対して、「あまりにも見識を欠いたものではないか」と強烈に批判した(いずれもその翌日付『産経』による)。

 世間の一般的な評判では『産経』は昔から日共の〝天敵〟とされていて、『読売』とともに日共と批判・攻撃を交わすのはごくフツーの姿になっている。しかし『朝日』と『毎日』は〝進歩的〟な新聞、見方によっては左側に偏向した新聞と受け取られており、自民党に食いついて左翼的な読者の喝采を受けたり、保守系論客や読者から毛嫌いされることはあっても、往年の社会党をはじめ、いまの立憲民主党以下の反自民勢力、本流か傍流かはさておいて、どこかに左翼のニオイを残す政党とは、互いに好意的・友好的に見てきたのではないか。

間違えたぶんトーン強めに?

 そういう前提(偏見?)で見ると、今回の日共の〝反撃〟はいかにも強烈であって、半世紀昔の左翼学生団体同士の〝内ゲバ〟を想起させる趣きがある。尤も〝内ゲバ〟とは本来は近親憎悪の典型であって、日共をウヨクと批判する新左翼過激派と総称される諸セクトの間、ときには個々のセクト内部で、しばしば発生する凄惨な暴力を伴う争いを指す用語だった。ただしそれと平行して、新左翼と日共直系の〝民青〟(民主青年同盟)の間でも、そう暴力的という噂はなかったものの、罵倒合戦は絶えず行われていたものだ。

 2月11日付『産経』の、60年ほど昔に数年間、筆者が担当したこともある朝刊1面コラム「サンケイ抄」によると、志位はこの記者会見の当初、問題の社説を『産経』のものと思い込んで非難を始め、途中で実は『朝日』だと気づいて、そこはフランクに、『産経』さん、御免なさい、間違えてました、と謝ったうえで、改めて『朝日』攻撃を展開したという。ひょっとするとにっくき宿敵『産経』が相手と思い込んで発言しはじめたぶんだけ、『朝日』攻撃のトーンがより強くなってしまったのかもしれない。

個人の立場による著書が発端

 一連の問題は、元日共の党本部で役職についていた人物が個人の立場で出した著書で、党の代表人事に関し、日共も自民党や立憲民主党などと同様に全党員が参加する党首公選制を導入するよう提唱したこと。そして、党の安全保障政策を〝ご都合主義〟と批判したこと。これらの点で当人がいま所属している京都府委員会が2月6日に除名処分に付したと、小池晃書記局長が同日の党本部の記者会見で明らかにしたことに、端を発している。

 除名理由は、「派閥・分派をつくってはならない」「党の統一と団結に努力し、敵対行為は行わない」「党決定に反する意見を勝手に発表しない」という党規約に反した(2月7日付『産経』による)ためとされていて、小池書記局長は記者会見で「異論を述べたから処分したわけではない。異論を突然、外から攻撃するかたちでやってきたからだ」「攻撃されたら、やっぱり党をしっかり守らないといけない」と説明したという。

 一方除名された当の党員は、同日に東京の日本記者クラブで会見し、「自著の出版が分派活動で処分されるのなら、憲法の言論・表現の自由は死ぬ。こんなことを進める共産党だって滅びかねない」と主張。処分を不服として党規約に基づく再審査を求める考えを明らかにした(これも7日付『産経』)。

『朝日』と『毎日』の社説がどのような観点から日共を批判したのかは、筆者はよく知らない。除名された党員の言い分と同様に、憲法が保障する言論・表現の自由を表に押し立て、たとえ組織原則として〝民主集中制〟をとる共産党であっても、党員としての政治活動ならいざ知らず、個人の言論活動の分野においてはそれなりの自由度が保障されていなければならない、という原則論に基づき、いくらなんでも抜き打ち的除名処分とは乱暴な、という調子だったと思われる。前掲の『産経』の記事でも、志位委員長の記者会見の場で、記者団の中から「1月に女子トイレでの盗撮などの疑いで逮捕された千葉県委員長と同じ」〝量刑〟はひどすぎる、という声が出たと書かれていることだし、そうした点が中心だったのは間違いないだろう。

政党の基本は100年変わらず

 日共の組織原則である〝民主集中制〟は、党の最高意思決定機関を、基礎組織である全国の党支部(基本である居住地域ごとに組織される居住支部と、職場や学校など日ごろ党活動を展開する組織内につくられる経営支部の2つがある。いずれも昔は〝細胞〟と呼ばれ、その呼び方が党内外で定着していた)から、地区委員会・都道府県委員会と上位機関に持ち上がっていく過程で絞られた末に選ばれる、500人ほどの代議員で構成され、3年ごとをメドに伊豆の山中にある党の施設で開く、党大会であると規定している。この場で採択された党綱領が、時に応じて改定を重ねつつ、党の基本路線となるわけだ。

 党大会は、次の大会との間の意志決定機関である中央委員会の委員・委員候補の顔触れも、大会事務局すなわち開催時の党執行部が提示する候補者名簿を承認する形で、選出・任命する。中央委員会は任期中に数回程度、たいてい年に1回か2回開かれ、最高指導機関である同幹部会委員を選び、時宜に応じた課題に関して、会議のうえで党の方針を決める。日常業務は、別途党大会で承認された中央委員会委員長・書記局長が、書記局と呼ぶ事務局を統率して当たり、同時に都道府県支部を通じ全党を指導する、という組み立てになっている。

 ピラミッド型に積み上げられた組織原則・政治方針・人事と、それに依拠する〝地方は中央を支え、服従し、中央は地方を指導し、指揮・監督する〟〝下部組織や党員は党中央の統制の下にあり、党の機関決定から逸脱した行為は許されない〟という鉄の規律が、なにも今昔の日共に限らず、共産党という国際的に存在する、正確にいえばかつては厳然と存在していた、政党の基本なのだ。

容易に起き得る当世との衝突

 日本共産党は昨年、党創立100周年を迎えたが、この組織原則は少なくとも建前としては、この間いささかの変化もなく、一貫して維持されてきた。党大会をはじめとする各級機関の決定やその通達、あまり例が多くはないが下部から党中央への上申も、すべて文書で行われていて、この方式も100年間、基本的に変わっていない。

 党員には多数の〝必読文献〟が指定されていて、必要に応じて追加される。党員は義務としてそれらを精読し、内容を身に付け、自らの思考・行動・品性・生活の原則として、かつての教育勅語の古式ゆかしい表現を借りれば〝拳々服膺〟しなければならない。徹底的な活字文化と堅固な規範意識のもとにある古典的体質、というほかない。

 こうしたあり方と、当世のリベラルと称する秩序無視・自分勝手が大手を振って罷り通る風潮や、デジタル技術を駆使した文書・画像伝達の大衆化状況との乖離・衝突は、容易に起き得る、至って当然の成り行きというほかない。今回の除名事件の当事者は、そう高齢でも若者でなく、ごく普通の中年男性だったようだが、社会人の平均的存在といえる党員と、党の基本的組織体質に凝り固まった党幹部の党員に対する視線・意識との間の、大きな日常的な感覚のズレの存在が図らずも露呈したところに、この珍事件の基本的な今日性・重要性がある、といえるのではないか。

 それだけではない。ひょっとするといまの〝代々木〟中枢は、こうした問題点に敏感に反応するどころか、ロクに気づいてさえおらず、別の方角にのみ神経を尖らせて、過敏に反応したのかもしれない。そう推測させるだけの大きなポイントもある。それはいまの日共の長期停滞とも密接に関連する、党の幹部人事の硬直性・時代離れした鈍感さ、それに対する党内下部の厳しい反発が、〝全党員参加による党首公選〟というキーワードに込められているのではないか、という点だ。端的にいえば、志位執行部に対する強い不満と烈しい批判が、党首公選制というアイデアを呼び覚ました、ということにもなる。

49年のピーク、50年の分裂

 前述したように日本共産党は1922年の創立で、すでに1世紀を超える党史を刻む日本最古参の政党だが、3桁からやっと4桁に乗ろうか、という同人雑誌級の小さいサークルがインテリを主体に散在するだけの、世を忍ぶ非合法政党だった1928年3月15日の3・15事件と、翌年4月16日の4・16事件の、2回の根こそぎ的な大弾圧を受けて大半が〝転向〟し、名存実亡とまではいわないが、冬眠状態で1945年の日本敗戦を迎えた。

 非転向を貫いた少数の党員は、刑期中を理由として敗戦後も獄中に留められていたが、無条件降伏した日本を占領統治するためにやってきたアメリカ軍の従軍記者が、東京・府中刑務所で〝獄中17年〟の徳田球一や志賀義雄を〝発見〟。占領軍指令で彼らが即刻釈放されたのに続いて、網走刑務所に12年入っていた宮本顕治らも出獄し、年末に合法政党としてはじめて公然と開いた第5回党大会で、徳田球一を党を代表する書記長に選出した。さらに翌年の敗戦後初の総選挙では、徳田・志賀をはじめ5人の代議士を当選させたのを手初めに、1949年の総選挙では35人の代議士を出して、いまだに超えていないピークを築いた。

 この間1946年には、昭和初期に留学先イギリス仕込みの共産主義者として帰国し、党活動に加わったものの、4・16を逃れてアメリカに出国、モスクワに渡りスターリンが全世界の共産党組織の総司令部として設けたコミンテルンに係わったあと、戦時中はシナ大陸に移って延安を中心に、毛沢東率いる中国共産党と協調して日本軍兵士に対する反戦工作に当たり、敗戦日本に凱旋将軍よろしく16年振りに帰国した野坂参三が、アメリカの軍事占領下でも日本の共産革命は達成できる、と主張。アメリカ軍のおかげで出獄した徳田も、彼らを〝解放軍〟と呼んだ。

 これに、ともに第2次大戦を戦ったとはいえ、すでに〝米ソ冷戦〟の構えに入っていたスターリンが激怒。大戦中にアメリカから武器援助を受ける交換条件としていったんは解散させたコミンテルンに代わる、世界各国の共産党の情報機関として新しく組織したコミンフォルムの名で、1950年1月に野坂と徳田を名指しして日共を批判した。これに対し徳田は、被占領下では時には〝奴隷の言葉で語らねばならないこともある〟という〝所感〟を公表して反論。志賀・宮本らは〝国際批判〟を受け入れるように主張して、日共は主流の〝所感派〟と反主流の〝国際派〟が組織を二分して対立する、分裂状態に陥る。

 その混乱の渦中に朝鮮戦争が突発。占領軍司令部は日共の所属国会議員や党幹部をいっせいに公職から追放し、党を事実上非合法化する。徳田・野坂らは毛沢東を頼り北京に密出国したが、徳田は1953年に北京で客死して、しばらくトップ不在の状態が続いた。

名実ともに宮本体制の確率へ

 その後、主流派は臨時中央指導部=臨中を発足させ、さすがに彼らだけで正規の党大会を開くのは避けて、地下で密かに規約上の正式な臨時議決機関である中央委員会総会を開き、その第4部に〝武装方針〟を掲げた〝新綱領〟を採択。実態は朝鮮半島で共産中国軍と戦う在日米軍の後方撹乱を図るため、と称して街頭で火炎瓶をブン投げるレベルに過ぎなかったものの、武力闘争・暴力革命方針を決定する。党首とされた臨中の議長ポストには椎野悦朗、続いて春日正一が座った。

 このころの1951年には、吉田茂・自由党政権首相が渡米して講和条約・日米安保条約締結を実現する。この条約が発効した翌52年4月に、オキュパイド・ジャパン、被占領国日本は、国家主権を回復する。

 1955年には吉田・自由党と鳩山一郎らの民主党が〝保守合同〟して単一保守の自民党が生まれる。戦時下の閣僚で、〝戦犯〟容疑で一時は巣鴨拘置所に収容されたが、占領終結後に政治活動を始め、ポスト吉田の鳩山に続く首相になった旧民主党系の岸信介が、アメリカのアイゼンハワー大統領と交渉し、吉田が結んだ当初の条約を双務的なものに改定した新安保条約の国会批准を巡って、反対派が激しい騒乱に持ち込んだ〝60年安保闘争〟が起きる。しかしこれらの局面では、分裂状態にある日共はまったく存在感を示すことができず、保守合同と時期を同じくして左派と右派の別党状態を解消して統一した社会党と、ブロック関係にある官公労組主体の総評、そして反民青の新左翼過激派の各派が、〝反アンポ闘争〟の主役を演じた。

 さすがに、これでは左翼の本流として日共の面目が立たない。そこで50年代後半から党分裂解消――統一回復の機運が生じ、両派協議のうえ、まず1958年の第7回党大会で、武力闘争路線を解消するために宮本が主導して〝党章〟という名称で当面の綱領的文書を採択した。そのうえで新しい党綱領の策定作業が始まり、国際派の宮本顕治・岡正芳のコンビのもと、宮本門下の若手の上田耕一郎・不破哲三兄弟らがスタッフに起用されて、実務の中心的な役割を果たすことになる。

 その過程で野坂参三を、当時のソビエトのフルシチョフの呼称を〝直輸入〟した第一書記に据えて党首とし、宮本を書記長とする妥協人事が採られた時期があったが、1961年の第8回党大会で新しい党綱領を採択するとともに、名実ともに宮本体制が確立。宮本の後任として中央委員長ポストを不破が継ぎ、2000年に志位にバトンタッチする、という流れを辿ったわけだ。

独自性、魅力に欠ける志位

 宮本から数えて3代60年、このうち宮本と不破はそれぞれほぼ20年間にわたって党を率い、宮本はソビエトにも中共にも一定の距離を置く〝自主独立〟路線を確立するとともに、暴力革命ではなく他の左翼政党とも協力して選挙―議会を通じて〝民主連合政権〟樹立を図る、と明言して党勢を伸ばした。

 宮本と同年生まれを中心に、その上と下との3人の叔父が、揃って東京の中学を出たあと受験浪人したあげく、四国・松山の旧制高校に都落ちしていた筆者は、瀬戸内海の対岸の山口県から松山高校に入った宮本に、どの学年にも俵という姓の出来のよくないのがいたぞ、とよくからかわれたものだ。宮本百合子の実家・中条家での葬儀の日には、東大の国際派組織から用心棒に駆り出されて、喪主の宮本とちょっと言葉を交わしたり、日共担当記者としてだけではなく個人的接触もあったが、彼には単なる党指導者・古い闘士でかつての文学青年というだけではなく、快活剛毅な人間的カリスマ性があった。

 宮本路線を書記局長として支え、後継委員長としても推進したうえに、路線が定着するよう、論面もより補強かつ柔軟化し、他党やメディアとも親しい姿勢をつくった不破は、筆者と同年生まれ。ただし秀才の彼は早生まれのうえに東京府立六中(現都立新宿高校)からいわゆる4修で旧制一高に飛び級入学していて、旧制東大の最後から1期前の理学部の学生だったから、現役で新制東大の第1期に入った筆者の、2学年上の勘定になる。学生時代から自治会や国際派の学生細胞の仲間だったし、若いころは同じ団地で暮らしていたことがあり、同じ電車で彼は鉄鋼労連の書記、当方は新聞記者として、通勤していたこともある。亡くなった不破夫人も、本郷の文学部と経済学部の間の地下にある生協売店の看板娘だったから一応は知っていた。 

 しかし、すでに指折り数えれば〝在位〟24年目に入った志位とは、世代が違い過ぎて一面識もない。それはどうでもいいが、そもそも志位には宮本や不破のような独自性もなければ、理論性も柔軟さも、人間的魅力も感じ取れない。それはなにもかつての共産党専門記者だった筆者だけでなく、有権者国民一般の印象にも共通していたようで、その証拠に一昨年の総選挙では前回の11議席から9議席、昨年の参院選でも前回の7議席から4議席に成績を落とし、得票数も減らした。不破から党首の座を引き継いだ2000年の実績と比較しても、党員数は30万人台半ばから20万台割れに、日刊と日曜版を合わせた党機関紙「アカハタ」の発行部数も、200万部超から100万部前後と、半減しているという。もちろんそれとは別の次元で、志位は新しい理論を打ち出したわけでも、新しい党風をもたらしたわけでもない。

激化するデジタル世代との軋轢

 この超無力・超無能さ、存在感の薄さ・アピール力のなさでは、交替論が出てきても当然というほかなかろう。たぶん志位体制に対しては、日共の中堅幹部以下のクラスや党外のウルサ型などから、なんとかならんか、という声がかなり前から出ていて、一昨年の総選挙後からいよいよ高まり、中央の党官僚も気にしていたところに、党首公選制というクセ球が彼らにしてみれば末端党員から飛んできて、『産経』ならまだしも『朝日』や『毎日』までが反応したので、思わずアタマに血がのぼった、というあたりが本当のところなのではないか。

 それにしても志位体制のひどさは、是正困難を通り越して、もはや改善不能と思うほかないし、超クラシカルな組織体質、自民党なんぞよりずっと保守的な規律感覚を堅持する政党である日本共産党と、極度にアナーキー化したデジタル言論世界との間に生じている軋みの露呈は、これから激化していく一方だろう。この調子ではゲームで鍛えたデジタル世代が幅を利かす世の中になったときに果たしてアナログ政党・日共が生き残っているのかは、かなり困難といわなければなるまい。

 日共と同様にデジタル音痴の筆者は、底が完全に抜け切ってしまったようないまの日本の社会風土にとって、共産党の存在はもはやG7で肩を並べる先進各国はおろか、本家本元のロシアや中国でさえ見かけない知的政治遊戯分野の古典芸能的存在、歴史遺産の絶滅危惧種として保護の対象にすべきといっても過言でない、と決して冗談でなく思っているのだが、日共は当然、とんでもない、と激怒するだろう。それならそれで、自身の手で然るべく善処してもらうしかない。

『時評』の執筆仲間として

 ところで本誌『時評』で筆者と同様に地方経済・政治に関して連載を持っていた森田実氏が亡くなった。病を抱えながら各地に足を運び、症状が重くなってからもリモートで対応していたそうで、亡くなった月に発行された誌面にも執筆記事が掲載されていた。

 年齢的には筆者の2歳下で、そう違わないが、この稿でも触れたように、筆者が大学で自治会活動に関わり、分裂状態の日共の国際派組織に加わっていたのは、〝50年問題〟の渦中の1950年からの2年間ほど。日共が一応統一して学生運動の焦点が砂川などの基地反対闘争に移り〝60年安保〟で反代々木に徹したころのリーダーの彼とは、トシは近いが活動時期がずれていた。

『時評』の執筆仲間になる前から面識はあったが、この縁が中心だった。記して追悼の意を表する。

(月刊『時評』2023年5月号掲載)