お問い合わせはこちら

俵孝太郎「一戦後人の発想」【第140回】

マイナカード制度が物語るもの (承前)

~国民の品性レベルを露呈 バラ撒き政治の全員集合、カードに顔写真は不要だ 中露の圧制を連想させる、〝紐つけ〟29項目の怪 生成AIの問題にも共通~

マイナンバーカードに関する不都合が政治問題化しているが、一方で最大2万ポイントのアメにつられた国民の品性低下も見過ごせない。また、顔写真の掲載は公的機関による情報操作という危険なリスクをうかがわせる。いまや〝マイナスカード〟と化した同制度は設計からやり直すほかはない。

回答者のほぼ4分の3が反対

 マイナンバーカードをめぐるさまざまな不都合が、問題になっている。ことにカードに埋め込まれたICチップに入っている数々の個人情報の誤入力・流出や、とりわけカードに依拠して行われる公金の個人給付の配布ミスをテレビ・新聞が大きく報じるに至って、この制度に対する世間の信用は大幅に落ちた。

 最近の各種世論調査によると、とくにカードと健康保険を一体化して従来の紙の健康保険証は来年度上期限り、つまり2024年9月限りで廃止するという法改正に対しては、回答者のほぼ4分の3が反対だという。これを捉えてマスコミは、岸田内閣の大失政であるとか、河野デジタル担当相の責任は重大だとかというが、率直にいってそれだけかという感がある。そんな単純な話ではなかろう。

 政府当局者にも、ミスに関してそれ相応に取るべき責任はある。しかしそれを責めること以外にも、目を配り、見つめ、論じ、追求しなければならない問題点が、明らかに存在する。ところがこの点に関しては、マスコミも言論人も、おそらくは少なくとも薄々は感じていながら、明らかに意識的に目を背け、取り上げるのを避けている。それは身勝手で欲深い視聴者・読者大衆には逆らわないように、という忖度が働くからだ。その理由は、視聴者・読者のこうした姿勢は、敗戦以後の長い歳月を懸けて、偏向新聞をはじめとするマスコミや主に彼らの庇護のもとで活動する左翼やリベラル派の論客が、説き、洗脳し、煽ってきたものであることは否定すべくもない、と内々で感じているからだ。こういっても、あながち見当外れとはいえないだろう。

 前号でも触れたように、マイナンバーカード制度は、安倍晋三前々政権下の2016年に始まっていた。当時すでに、いくつかの個人に関する行政情報や公的保険の利用履歴が〝紐づけ〟と称する役所の手続きによってカードに取り込まれ、建前としては本人と所管当局のみの閲覧・利用が可能になっていた。ただし制度の加入はあくまで任意だったし、この制度は実験的色彩が強いと思われていたのか、加入率は数年かけても国民の4割ほどにしかならなかったから、問題が生じても、大火事になる前になんとか揉み消せた。

 それが国民の4人に3人の普及度に伸びたうえに、役人どもが悪乗りした結果、〝紐づけ〟対象がなんと29項目にも増加したのだから、火事が多発するのもやむをえない。これでは炎や煙の存在がやたら世間の注目を浴び、しばしば批判の標的にされるようになるのは当然の成り行きだ。

勘定高い国民に大きな問題

 いままで6年も伸び悩んでいた加入率が急に伸びたのは、要するに従来の健康保険証を廃止してカードに一本化するというムチと、健康保険関連を中心に多くの公的個人データの〝紐づけ〟に応じれば最大で2万ポイントつまり2万円相当の金券を付与するというアメに釣られて、駆け込みで登録した国民が全体の3割強にも達したからだ。

 別の角度でいえば、当初国民の6割はこの制度に反応しなかった。応じたのは全体の4割ほどで、彼らの多くは公的な決まりごとには素直に従うのを習慣にしている、昔気質の善良な人たちだったと思われる。逆に6割は住んでいる市区町村の役場に自ら出向いて、最近3か月以内に撮った顔写真と、自分が自分であることを立証する証拠を2点示して申し込み手続きをする、という厄介ごとはほったらかしにしておいたのに、今回はアメに釣られた連中が大半。当初からなんらかの考えがあって応じなかった少数派が2割弱。このどちらかだったはずだ。そう考えると、今回も応じなかった確信組は、全国民の4分1足らず。カードを取得した4分の3強のうち、早くから取得していた人たちを除く、日ごろは横着を決め込んでいてもゼニ勘定だけは敏感で、今回はアメに釣られて駆け込み登録したクチが全国民の3分の1程度。こう大ざっぱな見当をつけることができるだろう。

 筆者はその勘定高い国民に、大きな問題があると考えている。敗戦国家となった日本人の意識がかなり程度を落としたことを否定するつもりは毛頭ないが、それでも長く伝えられた日本人の矜持はそれなりに国民の心の底に残っているはずだ。なにも武士だけに限ったことではなく江戸の町人の多くも、〝渇しても盗泉の水は汲まず〟の心意気で、痩せ我慢と笑われても貧乏などものともせず、胸を張って堂々と生きたに違いない。その名残はいまも残っているだろう、と考えてきた。

 大日本帝国の法秩序の一つの眼目だった、〝公共ノ庇護ヲ受クル者〟は選挙権を制限する、という考え方を、それなりに当然のケジメと捉え、独立自尊という、その〝独立〟とは、なによりも先に自分の力で生計を営むことだ、という福沢諭吉の言葉に集約される日本民族固有の勤勉努力の感覚は、いまも多くの日本人のどこかに遺伝子となって残っているに違いない。社会保障や福祉制度の問題とは別の次元で、税金からバラ撒かれるカネを自ら手を伸ばして受け取るようなマネは断じてしない、と胸に刻んでつましく質実剛健に生きる人は、敗戦憲法を続ける日本にも少なくないはずだ。こう確信してきたのだ。

国民の一割は返上の予想

 自公連立政権の安倍晋三首相に対して公明党が、ことに彼らと〝一体不離の関係(戸田城聖)〟にあると自認する創価学会の、ことに婦人部に強く突き上げられて、執拗に要請した結果と思われるのだが、コロナに苦しむ国民への緊急救援対策と称して、1人当たり一律10万円を所得にかかわらず全国民に給付する、という〝施策〟を安倍政権が決めて実施することになったときも、1割程度の国民は所定の手続きを取らずに受給をパスするだろうと、なんの根拠もなく、しかしそれなりの見当をつけて見ていた。

 この〝施策〟のための予算措置を承認した閣議で、本心では賛成していなかったと思われる状況証拠になると思うが、安倍首相の提唱で全閣僚は受給を辞退すると申し合わせている。自民党もそれと平仄を合わせ、所属する国会議員全員が受給を辞退すると決めた。それなら野党の連中や、与党として1人の閣僚を出しているとはいえこの愚策の言い出し兵衛であると思われる公明党の国会議員などは、到底保証の限りでないが、一定数の自民党所属地方議員も中央の姿勢に倣うだろう。ヒラ役人は別として中央省庁のキャリア官僚や、少なくとも都道府県・政令都市レベルの首長や幹部職員も、それに続くに違いない。財界人やそれなりの規模の企業経営者・シニセの店主や、そこに勤務する管理職級のサラリーマン。さらに医師・弁護士・大学教員はもちろん、テレビで活躍するコメンテーターや一応は売れている芸能人。テレビ局の下っ端社員はいざ知らず、一人前の存在と自認する新聞記者・作家・寄稿者。こういった人たちは、当然のこととして自らの矜持に基づいて、税金を財源とする必ずしも支給理由が明瞭とはいえない怪しげな現金給付は、断固返上するだろう。そこに家族も加えれば、最低でも国民の一割は超えるはずだ。さらに現役は退いても一定の影響力を持つ引退組や、巷の一徹居士などを加えれば、国民の二割に達するかもしれない。こう考えていたのだ。

多くて15万人、厳しくて3万人

 ところが、かつてこの連載でも書いたと思うが、2020年度の決算が22年の3月に発表されてみると、当該施策の予算額から執行額を差し引いた剰余金は、僅か400億円すなわち40万人分相当しかなかった。ということは1億2600万国民のうち、1人当たり一律10万円給付という〝施策〟に応じなかった国民は40万人だった、あるいは僅か40万人しかいなかった、という勘定だ。その全員が確信的な信条に基づいて意味不明の〝公金ニヨル救恤〟を受けるのを拒否したのかというと、そう単純な話でもなさそうだ。中には蒸発組や、さまざまな理由による逃亡者など、行方をくらませている1人世帯主もいるし、海外旅行に出たきりの単身世帯もあるだろう。各種統計から推認されるこうした人数を差し引くと、矜持をもって10万円の公金タダ貰いを拒否した人は多くて15万人、厳しく推算すると3万人程度になる。

 いうまでもなく筆者は、この10万円バラ撒きは家内ともども手続きを取らず〝権利〟放棄した。これを皮切りに安倍・菅・岸田の自公連立の各政権が、これも多分に創価学会=公明党ブロックの政権内部での働きかけが働いたのだろうが、恥もためらいもなく、あるいはこどもを対象に年齢で区切り、あるいは課税記録が示す〝低所得度〟を目安に、あるいは物価高に処する生活支援の名目で、国が直接、または居住自治体の首長独自の裁量として、といっても原資は国の特別地方交付金なのだが、まるで競争しているようにバラ撒き施策を連発するようになった。

 拙宅にも時々、申請すれば一定額を給付する、という通知が舞い込むが、それらもすべて無視して、1銭たりとも〝不浄のカネ(と筆者が断ずる公金の個人向け支出)〟は受け取っていない。最近はこうした反骨組も増えてきたのか、筆者の居住地では、代議士も区長も、区議会の最大勢力も立憲民主党の、しかも女性が多いという、世間の風向きから数テンポ遅れた地域であることも影響したのだろうが、辞退するならその旨を明示して回答せよ、と申請書に付記するようになった。

 これは受給放棄組に対して、せっかくのお上のご配慮に対して異論を唱えるのならその理由を示せ、と威圧を加える左翼に特有の党派的かつ思想調査的意図に基づく、行政組織を利用した不当な違憲的越法行為と断じざるを得ない。当然のことながら、筆者はかかる不当な要求も断然無視している。

しょせんはバラ撒きメニューの拡張

 あられもない、とめどない、バラ撒き政治の横行に対しては、筆者と同感・同憂の士も少なくないと思われるのだが、テレビ・新聞がこのバラ撒き風潮に対して批判的な考えを示す気配は、一向に見えてこない。とりわけテレビは、〝善政〟を歓迎する〝庶民〟の声や絵ばかりを流して、もっとやれ、もっと出せ、という空気を煽っている。岸田政権もその風潮に乗ったのか、大学生への奨学金や学費援助の給付対象拡大、転職希望サラリーマンへのリスキリング補助制度など、バラ撒き〝施策〟メニューの拡張にばかり視線を向けていて、立ち止まる気配も見えない。

 筆者も70年以上も前の大学1年のころ、父親が常習詐欺師に引っ掛かって債務の連帯保証で破産し、家が突然差し押さえられて一家離散する目に遭った。大学の寮に潜り込み大日本育英会の貸与制奨学金を申請して給付を受け、週6日の家庭教師とあわせて学費・生活費の一切を賄い、いらい完全に独立した暮らしを続けたが、卒業直後は安月給の身で奨学金の返済には閉口したものだ。

 その体験を踏まえていうのだが、困窮学生といえども、まずは肉体労働でも深夜の店番でも、昔ふうの家庭教師でも最近増えている小中学生の学習塾の講師でも、自分が働いて得た収入で学業を続けるのが、本来あるべき姿だと考える。奨学金は最低でも一定レベル以上の大学の、そこそこの学業成績の学生に対してのみ、育〝英〟の意義に忠実に、貸与すべきものだろう。一方給付型の奨学金は、家庭環境が豊かだろうと貧しかろうと関係なく、突出した能力の持ち主で、いずれはとんでもない世界レベルの大発見や大発明、少なくとも画期的な生産技術や新機軸の業容展開を生み出し、国家国民に大きく貢献する可能性が高いと思われる、主に理工系の俊英を対象に、実験費用の支援も含めて、厳しく銓衡した少数精鋭主義に徹して行うべきだ。

 イマドキの、大学生活の4年間を〝人生に与えられるたった1度のモラトリアム期間〟だなどと称して、遊楽旅行業者や彼らスポンサー筋に迎合するテレビに乗せられ、学業より〝青春を謳歌する〟ことに熱中する3流~5流大学の〝学生〟らにまで、奨〝学〟金、それも貸与型でなくやりっ放し・貰いっ放しの給与性に制度変えしてバラ撒く必要など、毛頭ない。そんなことを考えついて得々と〝目玉政策〟としてブチあげる政治家には、お前ら、気は確かか、というほかない。

厳格な財政規律の姿勢

 岸田首相は宏池会の正統を自負しているようだが、宏池会は創始者・池田勇人の財政家としての系譜を継ぎ、経済成長による財政規模の拡大とそれを投じた公共資本の整備を掲げる一方で、均衡財政・財政規律に対しては極めて厳格な姿勢を、派のモットーとして堅持していた。欧米諸国が消費税導入を始めた時期に、いち早く〝売上税〟を提唱した大平首相はその典型だが、財源論議は後からついてこい、といわんばかりの放漫さでバラ撒き施策のオンパレードを続ける岸田政権の姿には、元池田番記者、池田による宏池会創設いらいの宏池会担当記者の数少ない生き残りとして、鼻白む思いを禁じ得ない。

 いささか脇道に逸れるが、最近のテレビで保利茂を池田と並べて宏池会の創始者といっていた阿呆がいた。保利は池田や佐藤栄作らとともに吉田茂側近13人衆の1人ではあるが、ポスト吉田の当初から強烈な反池田で、岸信介―福田赳夫の仲間に入っている。そもそも宏池会とは、右派の国学者・安岡正篤が池田の〝池〟に因み、シナの古典に因んで命名したのだから、池田勇人以外の創始者なんか、いるわけがない。ものを知らない、ロクに本も読まないテレビ人間が知ったかぶりをすると、こんなザマを晒すことになるのだ。

厄介な、選挙での集団発作

 本筋に戻って、〝10万円総バラ撒き〟以降、日本人のレベルもここまで落ちたか、という思いは拭い難くなってきている。もちろん4人に1人弱の非受給者の存在は軽視すべきではないが、4人に3強は今回意味不明の2万円の金券を受け取り、とくにこの3人のうちの2人近くは、当初は賛成ではなかったはずのマイナンバーの個人口座登録に応じて2万円を受け取ったものの、そのあとはケロリとして気分的には反対派に戻った気配なのだから、脳天気もいいところだ。尤も彼らが登録した銀行口座はいまさら消えないから、この小器用に見えるヘンシンぶりも、ナントカの上塗り、の結末に終わったのは滑稽だ。

 厄介なのは、こうした定見のない〝風〟に乗って漂う連中が、選挙に際して突然集団発作を起こすことだ。おかげで日本の政治がおかしくなる事態がタマに現れる。古くは社会党の土井たか子が〝山が動いた〟といった、結局は大半が1回限りのマグレ議員に終わった女性候補が大量当選した参院選。そして細川超シロウト政権や鳩山由紀夫ルーピー首相に菅直人大カンシャク持ち超無能政権という〝国家的大災厄(安倍晋三)〟の発生というほかない事態が生じた。これらにくらべれば今回の10万円バラ撒きに端を発してマイナンバーカード2万円金券騒動に至る〝風〟がもたらした一連の問題なんか、よほどマシなほうというべきなのかもしれない。

顔写真掲載に潜むリスク

 マイナンバーカードには別の、根源的な疑惑もある。それは、このカードに顔写真がなぜ必要なのか、という点だ。

 筆者には甚だ不案内な領域だが、顔写真付きの公的証明書の類いは、旅券と自動車の運転免許証のほかに、なにかあるのだろうか。旅券は旅先の国側の人物確認的な効用があるだろうし、運転免許には無免許の替え玉運転対策の意味があるから、顔写真をつける必然性も一応は理解できる。尤も世間にはニセ医者もたまに出現するが、医師免許には顔写真がついているのだろうか。ニセ弁護士も少なくないが、弁護士の身分証明は必ずしも世間に広く知られているとはいえないバッジのほかに、常時携帯して求められればいつでもだれにでも提示するように定めたパスポート式の公的証明物はあるのだろうか。こういった疑問が生じる余地はあるかもしれない。

 そこまでは冗談半分として、いまのところはそもそも言い出し兵衛の安倍元首相も岸田政権も、たぶんなんとなく、証明書には顔写真は付き物だろ、といった程度以上の認識しかなく、深い意図まではなかったと信じたいが、その陰に潜む官僚どもの一抹の悪意が存在していなかったかどうかについては、筆者は必ずしも手放しで安心してはいられないと思っている。なんといっても、公的に把握・運用され、持ち主にも一定の利便性があるらしいとはいえ、29項目もの公的な個人情報を一括してプラスチック・カードに収めて、一応は簡単なパスワードという関門があるものの、その気になれば政府機関の構成員はもちろん、一般人でもちょっとした情報機器の裏操作術に通じていれば、覗き見が可能らしいシロモノなのだ。そこに本人の顔写真まで登録させる神経からは、常識も節度も、抑制も配慮も、感じ取ることなど到底できまい。

 いうまでもないが、国民の個人情報を一元的に把握し、それを極端に悪用する圧制は、現在の世界に明白に実在する。デジタル技術が開発当初の夢想されていた安穏な花園的発展の域をとっくに脱して、鬼子的な異様で凶悪な姿に変身してしまった現在、顔写真は明らかに政権が握れば凶器と化しうる。

 現に世界を二分しかねない状況を呈している強権・独裁・専制体制の国家では、かつてはSF小説の中でのみ存在していた、徹底した情報技術を駆使した権力による恣意的な操作による暴力的支配が、常態化している。あらゆる場所に設置された無数の監視カメラで集めた群衆の映像から、特定の一人を抜き出し、顔認証による特徴の固定・その詳細な分類・記号や数値を使ったデータ化・検索技術を駆使したシステムを使って照合すれば、一瞬にして対象の個人を特定できる。その個人の行動の完全な把握、追跡が可能となり、必要なら、いつでも、どこにいても、摘発し、拘束し、処断することが可能になっている。

国民相互総監視の側面

 民主主義の政治制度と自由経済に立ち、多様な価値観の並立・共存、他民族・多文化の共生を謳う日本や欧米先進国でも、目的・性格は明らかに違うが、監視カメラは公設・私的団体による設置だけでなく、町の店先や住宅にも、少なくとも都市部では、ほぼ街路の全容を捉えきることができるほど、広く普及している。それらはいまや社会の安全装置として、防犯や治安維持の観点から不可欠な公共インフラの一種になっていて、犯罪や事故の発生に際し、警察が個人の家々を歩いて監視カメラの映像の任意提供を求め、それをつなぎあわせて追跡し犯人逮捕や事故原因の解明につなげることは、いまや日常茶飯事だ。それにはなんの問題も難点もないが、しかし情報技術と通信技術、それに監視技術がより新しい着眼点でシステム化した機能を加えていく近未来に、微妙な問題が生まれる危険性は、民主国家なら将来にわたって絶無だ、と果たしていいうるものか、甚だ疑問だ。

 現代の情報化社会には、国民相互総監視の側面がある点を見落とすわけにはいくまい。その政治的・社会的な意味合いについて、世間の認識はまだまったく及んでいない。そのある種の無神経さ、ナイーブといってもいい警戒心のなさは、現に生成AIが全世界・全人類に向けて提起している問題にも通ずる。生成AIに関しては、開発した企業のトップ4人連名の〝反省〟声明と世界的な規制ルールの設定の要望が出た。広島のG7サミットやEU首脳会議の決議でも、この問題は指摘されているし、アメリカ・バイデン大統領は、個人情報の過度集約を禁ずる規制法の緊急制定を、米議会に出した。

 しかし規制ルールができても、国際法を一切無視している中国が、応じるわけがない。開いたパンドラの箱は、もはや閉じないのだ。

 そうした中での、日本政府のマイナスカードならぬマイナカードをめぐる無神経な動きは、周回遅れどころか、論外の極みだ。全面撤回して制度設計からやり直すほかない。

(月刊『時評』2023年10月号掲載)