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俵孝太郎「一戦後人の発想」【第145回】

本格的官僚政権復活待望論(下)

派閥解消は必然だ、とキシダもテレビ・コメンテータもいう。しかしホントにそうか。民主政治は議会政治、議会政治は政党政治。政党に派閥は付きもの、排除すれば「大政翼賛会」にしかならない。それを避ける有効な手法が官僚の能力の活用だ。

 岸田首相は、派閥の系譜上では池田勇人・大平正芳・鈴木善幸・宮澤喜一に続く保守本流の宏池会5人目の総理総裁の地位にあるのを背景に、バブル崩壊を受けて平成時代の幕開けとほぼ時期を同じくして始まり、いまも尾を引く長期不況を打開しようと野心を燃やし、戦後日本の経済再興の象徴となった池田政治の再興を意識して、賃上げを起点とした経済の活性化と高度成長の復活を強く主張している。そのこと自体に異存はないが、宏池会の歴代首相のすべてを誕生から閉幕までごく近くで見てきた、いまや数少ない生き証人の老政治記者として、岸田の言行には、これは違う、カン違いも甚だしい、と思わざるを得ない面が少なからずある。

 それらを具体的に指摘して、なぜそういう考え方に至ったのか、岸田個人の勉強不足と思わざるを得ない点と、ポスト池田の半世紀を優に超える日本の政治の到達点が抱える問題点との両面で考えるのが、この稿の狙いだ。

伝説的な「財界四天王」

 その議論の出発点として前回に、まず池田の信仰心、生活の質素さ、そして参謀格でもあったもともとは西日本新聞の政治記者である秘書官・伊藤昌哉の忠告を受けて、総理となってからは料亭に一切足を踏み入れなかった事実をあげた。断るまでもなく総理になったトタンにやたら高級店での会食が目立つ岸田と対比させたのだ。岸田の場合は新聞各紙の「首相動静」で見る限り、会食の相手も親しく気安い仲間がもっぱらのようで、昨夜総理とメシをくったらこんな話をしていた、と翌晩のテレビのニュースショーでしゃべくるような、軽薄・軽率な手合いさえいる。そんな連中とは気楽な自慢話はできても、当面する政治・政策・政局に関して真剣に論じ合うことなど、断じてあり得ない。

 池田には世に「財界四天王」と呼ばれた桜田武・小林中・永野重雄・水野成夫の経済ブレーンがいて、しばしば昼に総理官邸で公然と会い、意見を聞き、献策も得ていたのは、よく知られている。しかし多くの財界人をホテルの大宴会場に集めるようなことはなかった。学者のブレーンも中山伊知郎・東畑精一ら少数の固定メンバーに絞られていた。

 夜は原則として私邸に早く帰ったが、毎晩集まる記者ははっきり二分されていて、玄関から母屋に上がる「座敷組」は吉田内閣時代初期以降のいわば「子飼い」のヴェテラン記者。勝手口の外の通用門との間に仮設されたプレハブの「番小屋」に詰める新米記者とは画然と区別されていた。

「座敷組」もどうやら二手に分かれているようで、各社の役員・局長クラスも混じる片手の指ほどの「茶の間組」は、池田派の幹部議員や「四天王」とも直接連絡しあって「宏池会」の政略・政策の基本路線から当面の戦術までの協議にあずかり、「応接間組」の現役池田派担当記者の集まりでは、党内外の各派・各団体から各省庁に至る情報交換・分析を話し合う一方、むしろ生臭い政局論議を時には池田も顔を出してやっているようだった。

 そうした中で味噌っカス級の番記者の溜まりであるプレハブ小屋にも、少なくとも政権初期のうちは池田自身が2、3カ月に一度くらいの割合で姿を見せた。そして、お前ら政治家の尻ばかり追っかけている無学な政治記者どもに経済というものを教えてやる、とブチ始めた。早く帰宅してヴェテラン組が集まる前の食後の時間が多く、一杯機嫌で酒造業の生家が作った二級酒の一升瓶を片手に、記者には予め番小屋に木箱で積んである到来物の大銘柄の特級酒を宛てがい、生家の原酒を手酌で番茶茶碗に注ぎながら、オレのいう通りにすればお前らも定年になる頃にはだれもが自家用車を持てる、と断言した。

 敗戦後まだ15年余、やっと空爆の荒廃から立ち直った時代の番記者たちは、30歳前後だ。当時の定石の55歳定年なら1985年ごろの見通しを、データを並べながら語ったのだが、多くの記者は一杯機嫌の駄法螺だと思って聞き流していた。だが後になって見れば、現実にその通りになっていた。

まず「財政家」という自覚

 桜田から直接聞いた話だが、大平官房長官も自身が目をつけた官僚や「四天王」が推す民間会社のスタッフにチームを組ませ、協同で緻密に政策展開の具体計画をつくり、大まかなタイムスケジュールの見当をつけ、「四天王」の意見も添えて池田に報告していたという。そういえば当時官僚ならぬ「民僚」という新語が生まれていたし、これも新登場した「官庁エコノミスト」とともに、ビジネス界でも具体的人名つきで話題になっていた。

 池田の自覚・自負は、経済政策に通じた政治家という以前に、まずオレは財政家だ、ということだった。ド・ゴールが池田を「トランジスタラジオを世界に売り広める行商人」と評した(これは実は池田のあとにドゴールに面会したパキスタンの政治家が会談場から出てきたとき記者にいったとする作り話というが)ほどの熱意で、まず戦後日本がとりあえず本領としていた新型生活用品の欧米への売り込み・輸出に力を入れた。そしてそれで得た外貨を背景に一挙に重化学工業国になる目算を立て、そのとき資材を輸入した近辺で製品化し即諭出するために、港湾に近接した新しい産業都市を日本の沿海地域に配置しようと考え、その間をつなぐ高速道路網や新幹線の整備も計画した。それらの建設・整備費用は、建設国債とともに急増する国民の貯蓄や社会保険の積み立て金を利用した財政投融資を惜しみなく充当したが、財政規律を重んじ赤字国債は絶対に出さない原則を貫いた。

 池田には、番小屋の講釈が物語る経済政策の確定とその「伝道師」としての役割のほかに、伊藤昌哉が著書に亡くなる直前の池田が病床でこれが気掛かりだと漏らしたという、重化学工業地帯の外周を包み込む中小企業群と、さらにその背後には近代的な農業地域を配置する、重層的な国土づくりの構想があった。さらにこうした施策を推進するためには徹底した行政改革が不可欠だとして、銀行家の佐藤喜一郎をトップに据えた臨時行政調査会の設置準備を進めていた。

 そうした複眼的な側面は、現に岸田が唱える池田を継承すると称する政策にはまったく盛り込まれていない。単なる経済成長オンリーだ。

紆余曲折ながら継承されて

 池田勇人の政策体系は、彼の急病退陣後、師匠の吉田茂の意向もあって余儀なく後任に指名した、実はその直前に池田の自民党総裁三選をめぐって厳しく政策論で対決していた佐藤栄作に無視され、うち捨てられた。それでも有効な政策はあくまでも有効であって、佐藤が、池田が種を蒔き、育てた高度経済成長の恩恵を最大限に享受することで沖縄返還に集中できたのは、皮肉というほかない。

 ポスト佐藤は彼が望む福田赳夫を退け田中角栄が制した。田中は当時「裏日本」といわれた日本海側の地方出身者として持論にしていた「日本列島改造論」、さらに盟友・大平正芳の「地方の時代」論とも平仄を合わせつつ、池田がやり残した国土開発の総仕上げに成長経済の果実を投じて猛進した。

 その後ロッキード事件が突発して、三木武夫・福田赳夫の「傍流保守」、より正確にいえば反池田勢力が政権を握り、佐藤内閣の反池田路線に帰ってしまう。福田は嫌がらせのように起用した政敵・大平蔵相に命じ、財政法が明文で禁止する赤字国債の発行に踏み切る。これに対し大平は、再登板を狙う福田を総裁公選で破って政権を奪取。財政秩序・財政規律の回復と行政改革の再興を図り、赤字国債の発行を最大限抑制するとともに、建設国債を含む国債発行残高の圧縮を図る一方、欧米で実施され始めていた消費課税制度を日本にも導入しようと売上高税を提案した。

 これらの計画は、福田・三木が怨念で仕掛けた政争の所産である大平内閣不信任の成立による解散―総選挙と参院選との、憲政史上初のダブル選挙の渦中で大平が急死したあとを継いだ鈴木善幸が、愚直に進める。赤字国債発行中止は、鈴木後継の中曽根康弘内閣で2年間に止まったものの一応は実現する。行政改革も、鈴木内閣の途中改造で中曽根を行政管理庁長官という、一見閑職だが実は行政改革のキーマンに起用した人事が財界を動かし、東芝の土光敏夫を会長とする第2次臨時行政調査会を鈴木内閣中に設置の閣議決定、中曽根内閣に代替わりして間もなく法案が成立して、「佐藤臨調」の短命な消滅から20年近く経てようやく復活する。大平が提唱し鈴木が受け継いだ消費税制導入も、中曽根内閣が在任中になんとか実現しようとしたが果たせず、3代の政権の懸命の啓蒙の末、竹下登内閣になって欧米先進諸国から10年以上も後れる醜態ながら、やっと実現した。

 池田勇人の政策路線といっても、経済成長だけでなく、地方整備も行革もあったが、その幅広い視野がいまの岸田には欠けている。不勉強の証拠、といわれても仕方あるまい。

伊東正義、外相辞任の真実

 池田には伊藤昌哉も大平も「四天王」も近しい学者も多くの仲間の政治家もいたが、もう一人、別格で前尾繁三郎がいた。大蔵官僚になりながら、ともに若くして重病で長期療養を余儀なくされ、出世が遅れた親友だ。終生池田の身辺に止まる厳しい助言者だった。

 大平には少壮官僚として占領地の内蒙古に行かされ、未開の地の国づくりに係わった時期がある。当時ともに苦労した大来佐武郎、佐々木義武、伊東正義とは強い盟友関係を保ち、伊東は常に大平の最高の相談相手を務めた。大平急死後に総理臨時代理を務めた伊東が周囲の勧めを断り、後継首相になった鈴木善幸の求めた外相もたちまち辞任した後、地元の会津でじっくり話を聞いたことがある。

 世間は同行した鈴木首相の初渡米での日米関係に関する発言に異論があったための抗議といい立てたが、本人はなに、引き続いてベネチアのサミットに行くのがイヤだったからさ、という。病身で常に和服で通し、選挙でも人前に立たない夫人を、洋服の礼装で晩餐会になんか出せない、だから断る口実にした、鈴木も百も承知さ、という。子供も無く農林官僚として次官まで務め、老後を女房とゆっくり過ごそうとしたのに、大平にせがまれてそうできなかった、その埋め合わせをしようという時に外相なんて迷惑千万、という。同席の会津の支持者のだれもが納得していた。

 大平は香山健一を中心とする新鋭の学者や官僚・民僚にも目配りが届いていた。そうした面は大平が真正面から取り組もうと準備していた「文化の時代」「田園都市構想」「家庭基盤充実」など9政策研究会の多彩・多数の委員構成にも現れている。

 筆者は大平が短い総理在任中、NHKで隔月、その間は民放ネット局の持ち回りで、当時定例化していたテレビ番組「総理と語る」で2度相手役を務めたが、そのうち1度は遠藤周作とのまことに非政治的な話で、首相としての発言に宗教は持ち込めず、司会進行に往生した覚えがある。若いころ1年間学業を離れ、キリスト教の伝道に街頭に立った体験のある大平の口癖は、エターナル・ナウ=永遠の今、だったが、そうした点も宏池会の後継者を自認する岸田は知っているだろうか。岸田の身辺には厳しく直言する各界の硬骨の長老、鋭い視角と広い視野を持つ知識人の姿が見られない。おべんちゃらをならべて陪食する手合いばかり目立つ。こんなことでまともな国政の指針ができるとは到底思えない。

伝承に貢献した鈴木、中曽根

 大平の急死後にまとめられた9研究会の報告書は、鈴木内閣が閣議を経て確認した公式の政府文書として分厚い本で残っている。土光臨調の準備といい、消費課税導入の世論対策といい、池田―大平と続く宏池会政策の伝承に鈴木が果たした役割は、極めて大きい。

 それらを具体化する中での中曽根康弘の貢献もまた、大きかった。中曽根が力を込めた四つの分科会に、文部省や教育界・日教組などが固執する委員枠を無力化するように、多数の外部人材を専門委員の名目で送り込んで自由奔放に論議させた総理直属の臨時教育審議会・臨教審は、大平の研究会の少なくとも大きな部分により深く踏み込むものだった。中曽根は大平における伊東と同様の顧問格の後藤田正晴と緻密に擦り合わせて、宏池会の政策面での系譜を継ぎ、土光臨調を軌道に乗せた。筆者はもし宏池会の系譜が鈴木後も続くとしたら、それはもともとは反吉田の青年将校といわれた中曽根であって、宮澤喜一ではなかった、と考えている。筆者はバブル崩壊が目前に迫っているのは明白なのに当時の海部俊樹首相が余りにも脳天気なのに呆れて、ある場で緊急対応の必要性を説いたが、彼は景気はまだまだ上昇するといい、全然わかっていなかった。そこでかねて親しかった宮澤への政権交代を意図し根回しに動いた。

 そのとき『東洋経済』誌巻頭の名物企画、歯に衣着せぬ匿名時事座談会で「財界人」と「政治記者」としてよく顔を合わせていた、池田「四天王」の一角で、大平・黒金泰美とともに池田「秘書官トリオ」の一人である宮澤にとっては郷土広島の縁からPTA会長格になっていた桜田武から、キミが宮澤のために動いていることはよく承知して感謝しているが、宮澤は人に使われるときは能力を発揮するが人を使うことはできないよ、といわれたことがある。まことにその通りだった。

 そもそも宮澤は池田亡き後は前尾寄りで、大平後継に否定的だった。こうした人は福永健司・小平久雄・小坂善太郎らかなり多く、「吉田学校」仲間の佐藤栄作に近づいていった。宮澤もひところは佐藤に重用され、その面でも近親の岸田文武とともに大平・鈴木・田中六助の宏池会新主流と距離感があった。そうしたデリケートな人間模様も、岸田文雄には正確な情報としては伝わっていまい。

 宮澤は自分が関心を持てない派閥運営や国会対策など、もともと派内の専門家に任せるべき領域の他に、国民福祉や世論対策など首相として不可欠な部門にも直面しようとしない身勝手さがあった。内政に関心が薄く視線はもっぱら外に向いていた。そういう面で桜田が看破した通り総理には向かなかった。

 池田は紛れもなく官僚出身政治家だが、彼はそういわれることを嫌い、党人気質を衒う面があった。それが通ったのは、前尾・大平という超官僚が周囲を固めていたからだ。

「政」と「官」のバランスをとる力量

 筆者は一国を担う首相には「政」が受け持つ政治と政策、「官」が当たる統治と行政があり、そのバランスをうまくとるのが優れたリーダー、とれないのは落第と考える。宏池会とその周辺で見れば、うまくやれたのが大平と中曽根、大平に任せて結果的に奏功したのが池田、大平を死なせた政争の反省から三木・福田らトラブルメーカーが動けなかったため結果オーライになったのが鈴木、宮澤は落馬、といった見立てだろうか。他の戦後の首相では、手綱取りがうまかった吉田と佐藤がぎりぎり合格圏。田中は障害激突で落馬。あとは馬なりで無難にいった運のいいのが若干いて、ヤマっ気を出したのは例外なく落馬だ。岸田は現状では落馬組というほかない。

 つまるところ首相の器量は官僚の動かし方だ。大平のもう一つの口癖は、つかさ・つかさ、古い詔書などに馴染みの「百僚有司」をそれぞれの役どころに合わせてどう動かすかだった。そのためには事務方が当たる行政実務を、責任ある立場に立ってどのように官民全体をまとめて進めていくか。そのためには官界と民間の要所要所の双方に、意が自ずと通ずる仲間を持っていなければならない。大平も中曽根も、その目配りがよく行き届いていた。大平の9研究会、中曽根の4部会を持つ臨教審のラインアップを眺めているとその辺がうっすら見える気がする。それに比べると福田赳夫の「さあ、働こう内閣」なんていうスローガンは、聞いたトタンにやる気が失せる程の発想の貧困さではないか。

 安倍にも似たようなところがあったが、首相になるとやたら外遊に飛び回り、これで何十か国目だと、テレビに外国首脳と握手する映像を流させたがるのがいる。岸田もそのクチだ。国家が年間GDPの2倍に迫る財政赤字を抱えているのに、さしたる用もない国に税金を使って女房同伴で出向くだけでなく、なけなしの国庫から援助と称して相手側もロクに感謝するとも思えない意図不明のケチ臭いゼニをバラ撒いてくるのを、新聞・テレビが批判しないのには呆れ返る。

 アメリカにアジア・太平洋、さらにインド洋に面するアフリカ東側の国々の面倒見役を押し付けられているのなら仕方ない面もあるが、それはそれとして政務次官か政務官に任せ、自分はもっと多くの先輩格の財界人・知識人の知見に学んだり、官僚トップ級と大きな絵図を構想しながら議論したり、国内巡視を含めて当面する内政各般に目配りしたり、なすべき課題に向ける時間を持つべきだ。

官僚政権再興以外に道は無し

 元日に突発した能登の大震災は、表面だけ見れば国土の幹線として整備され尽くした観があった高速道路網をはじめ、村落を縫って舗装したはずの道路の意外な老朽ぶり、少子化対策もさることながら国土を国土として機能させる最低条件を満たしている山村の孤老たちへの日ごろの支援の乏しさ、など多くの見落とされてきた内政課題の存在を目前に突き付けた。それらへの対応は外遊などとは比較にならない首相の急務であるはずだ。

 岸田首相は、自ら陣頭に立って、というのが口癖になっているが、これも感心しない。あげくの果てには、火の玉となって急速な事態解決に当たる、ときたもんだ。ものを知らないテレビのコメンテーターも火の玉という表現に呆れ、火だるまとか、財政危機を皮肉ったつもりか、火の車かと野次っていたが、そんなものではない。「進め!一億 火の玉だ」というのは、シナ事変下の大政翼賛会がNHKラジオを通じて四六時中国民に吹き込んでいた戦時スローガンだ。

 当時の少年である筆者世代はいざ知らず、敗戦から12年後に生まれた岸田が、直接この表現を聞いたはずがない。多分筆者より4歳年長の父親か、むしろ近衛内閣の海軍政務官・政務次官、さらに翼賛政治会の国防部長だった祖父の口癖が、知らず知らずのうちに孫に感染していたのに違いない。

 このスローガンは戦時下でよく流れていたが、概してロクな戦術しか思いつかないのにその型に戦闘展開を填め込もうとする、主として陸軍の戦線指揮官が唱え、彼らの指揮する戦闘はたいてい惨敗したものだ。孫のほうは単に幼時の聞き覚えの話に過ぎないと弁明するだろうが、岸田の祖父がもともと属していた政友会の反対派・民政党に所属する幹部代議士で、反東條英機、いわゆる翼賛選挙では東條に直系の退役軍人をまさに狙い撃ちの刺客として立てられて、落選した人間の孫である筆者としては、火の玉で戦え、は聞き捨てならない。これは政治家、首相はもちろん官民どの位置でも、責任ある部署のトップなら絶対に口にしてはならない、と考える。

日本官僚の特性を活用せよ

 筆者は少なくともポスト・プーチン、ポスト・習近平の局面まで、大きな政治的意思選択の必要はないと考える。ロシア封じ込め、中国の国際規準の範囲内の共調、もちろん日米機軸の原則が揺らぐことがないよう、派閥間競争を含む勢力分野の維持は大前提だ。

 不可欠なのは強靭な国土の維持、人口と労働力の縮小に対応する新しい経済構造・社会秩序の模索と確立で、そのためには本格的な官僚政治家の時代が待望される。予め選抜され、内部の競争でさらに淘汰・簡抜されて育つ、大きな絵を緻密に描く能力は日本の官僚の特性だ。宮澤政権を異質と見れば、中曽根政権が終わった1987年11月から3分の1世紀以上、過去の日本を育てた官僚政権が消えた日本は、バブルによる弛緩とその崩壊に伴う惰性の中で、政治的無気力・無規律の中で過ごしてきた。そこからの脱出は官僚政権の再興以外に望めない、と筆者は考える。

(月刊『時評』2024年3月号掲載)