
2025/02/03
<追悼> 俵 孝太郎 先生
本年1月、政治評論家で小誌「時評」特別顧問の俵孝太郎先生が逝去されました。謹んで哀悼の意を表します。
俵先生は長年にわたり産経新聞論説委員、フジテレビニュースキャスターとして活躍され、文字通り戦後日本のジャーナリズムをけん引する一方、膨大な著作を発表し数多の講演活動を展開するなど、メディアと言論界に語り尽くせぬ足跡を残してきた巨人でありました。戦後から高度経済成長期、そしてバブル崩壊を経た成熟経済の現在まで、先生の存在はマスコミからの視点における、わが国現代史そのものであると言えるでしょう。
その俵先生が小社創立者の米盛幹雄と知己を得たのは、まさに1959(昭和34)年の小誌創刊期に遡ります。爾来、固い友諠に基づき評論を連載していただくこと実に65年、多忙な日々に追われながらも、ほぼ欠かさず時には病床からも筆を取っていただきました。おそらくこれほどの超長期連載事例は、古今においてもごく稀ではないかと思われます。時代々々に発生した政治・社会的事象に対する鋭い洞察、論理的かつ明晰な筆致、歴代の政治家や経済人等の相関における驚異的な記憶力などは直前の号まで衰えを知らず、また時には流行りのフレーズを文面に織り込むユーモアも有しておられました。毎月、原稿を頂戴に上がる際も、直近の政治課題がどのような歴史的経緯をたどり、人の系譜を経た結果、現象となって表出しているのか、滔々と講義いただいたことはいまさらながら弊社にとっても貴重な財産となっています。
今回、追悼の意を表するとともに、病床から1月号の締め切りに間に合わせ、掲載を強く意向されながらも、半ばで絶筆となった先生の遺稿を掲載させていただきます。まさに俵先生と弊社先代会長の米盛幹雄との、決して劇的ではないものの、その後半世紀を優に超える繋がりの起点が回顧されており、改めて小誌が人との縁によって存立していることを、図らずも先生が最後のメッセージとして再認識の機会を与えてくださいました。ここに言葉は尽くせぬながら深い謝意と改めまして哀悼の意を表します。
本誌主幹 米盛康正
65年前の運命的出会い
2025年に入った。
「昭和」は実は1926年のクリスマスからはじまっていたのだが、元年は当然一週間しかなく、すぐ二年になっている。現に生きている日本人は、ほとんどが「昭和100年」のうちのどこかの日に生まれたわけだ。
一応は節目の年だから何か公式行事があってもおかしくないはずだが、その気配もない。当然の話で今年は敗戦80年でもある。そんな年を祝う国なんか、あるわけない。
時評社との付き合いも65年目に入った。〝安保騒ぎ〟の翌年の夏、厚生省の記者クラブに、4人の若者が突然やって来た。カシラ分らしき男のいうには、一番若いコイツがそのへんの屋台で酔っぱらってケンカをしたのだそうだ。が、翌日も同じ屋台で、前夜のケンカがまるでウソだったかのようにたちまち親友になり、互いに職業・身分を明かしあったという。
自分は実は郷里の鹿児島から、弟二人とこの甥っ子の4人で、この国の政治家や官僚が中央で作る政策、施策と地方の現実にどういう齟齬、ズレがあってうまく機能させていくことができないでいるのか、及ばずながら小雑誌でも出して、世のために尽くしたいと上京してきた。縁あって日比谷公園内の片隅にあるレストランの屋根裏部屋を借りられたが、肝心のこのテーマの執筆者を求める手段が、鹿児島で聞いて来たようにたやすいものではないと思い知らされている。
そこにコイツが、とまたバチンと甥っ子の額を弾いて、官庁に詰めている記者サンとの仲を偶然にも作ってきた。早速その縁にすがろうとしたが、相手方が、オレは実は政界の裏情報取りが得意で、官庁の政策や行政情報の連載記事などとても書けない。しかし仲間うちにこうしたものの書き手がいて、今は厚生省のクラブにいるから、一度当たってみたらどうか、といわれたという。厚生行政・社会保障政策は時代の最大関心事になりつつあるし、できることならこの無名の小雑誌にも常時執筆・連載してもらえればこんなに嬉しいことはない、というその言やよし、と筆者も感応して翌月から執筆陣に加わり、今年で65年目になったというわけだ。
この間、当然のことながら発行部数の浮き沈みも経営難の時期もあったが、ページ数を減らし大幅に経費を削減した薄い冊子になっても、歯を食いしばって定期を守り、絶対に社会的意義のある雑誌を潰さないようにしよう、原稿料なんか要らないから、と励ましたこともある。
米盛幹雄創業社長は、温厚、寡黙で、しかし広い人脈との長い付き合いを不偏不党の姿勢で一貫し、雑誌経営者として初志を貫徹して、子息に事業を継がせてもはや十回忌を終えた。
当初、筆者のもとに原稿を受け取りに通ってくれた、伯父に額を弾かれてばかりいた甥っ子は、薩摩健児の典型ともいうべき明朗な好青年だった。この連載タイトル「一戦後人の発想」には、米盛幹雄氏との長い友情・信頼関係と、かの好青年の思い出が隠されていることを、言い添えておきたい。
祖父が踏んだ〝露〟
さて、残していたサブタイトル「露置き露の干るがごと」の『露』にまつわる話だ。この一字の持つ意味は、筆者にとっては限りなく深く、大きい。
それは、東京帝国大学卒の官僚政治家として第一陣の一人だった祖父が踏んだ〝露〟に直結しているからだ。そして同時に、筆者の父親を長男とする七人の子(一人は夭折)を持ちながら全員に対して不満で、初孫の筆者をことのほか可愛がってくれた祖父の思い出とも直結しているからだ。さらに祖父没後、筆者が自分の意思で選んだ〝露〟多き道とも続いているからだ。筆者としてはこの三つの〝露〟の間を行きつ戻りつしながら、時に時局の課題にも言及しつつ、得てして〝吏道衰退〟〝士道不覚悟〟と世間から指弾を浴びやすい安易な〝施策〟ばかり持ち出し、とりわけ最近はデジタルとやらを多用して電波音痴の老人層を困惑させて平然としている、独善的な〝Z世代型〟のヤクニン衆や、彼らが権力を盾に労働基準法遵守の名目で押し付けてくるのに逆らわず、記者本来の〝24時間勤務体制〟二晩や三晩、真相追及のためなら力の限りを振り絞る〝記者道〟などかなぐり捨てた、特にテレビ界に多いキシャ気取りの怠け者どもにかつての先人の努力ぶりを伝え、多少とも〝報道の質〟を高めたいという意図も合わせ持って、書いていく所存だ。いままでとは体裁はそう変わらなくても、読み味は多少変わってくることを読者諸賢にはお断りしておきたい。
さて、その『露』。まずは祖父が出た第一高等学校の最も知られた寮歌、〝嗚呼玉杯〟に関係する。
この寮歌は、東京帝国大学に進んで国家の中枢に立つ学生を全員寮に入れて鍛える、その際のいわばその年を代表する寮歌の、12回目のものだった。祖父はそのときまさに在学中で、〝玉杯〟を高唱した最初の何人かの中にいたことになる。
と、ここまで書いたはよいものの、なにぶん卒寿を数年越した身としては体調面への考慮もあり、中途ながら今回は一旦ここで筆を置き、詳細は今後の機会に譲りたいと思う。重ねて、読者諸賢の拝察を願いたい。
(月刊『時評』2025年2月号掲載)