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俵孝太郎「一戦後人の発想」【第96回】

善幸サンから中曽根サンへ の時代 キーワードは〝行革〟と〝赤字国債〟

 昨年末に中曽根康弘元総理が亡くなったことを受け、改めて氏の業績と意義、筆者とのかかわりについて触れておきたい。鈴木前総理からの〝宿題〟を、氏が万全に達成したことを改めて紹介しておくべきだろう。

 中曽根康弘元総理が亡くなった。
 
 新聞をはじめマスコミは、没年を101歳と報じていて、それはもちろん間違いではないが、氏の誕生日は2月27日だ。明治38=1905年に東郷平八郎提督率いるわが連合艦隊が、日本海の入り口である対馬海峡の西側で、北海沿いの基地を出て、アフリカ大陸の西岸を南下し、喜望峰・インド洋・東シナ海を回って、はるばる来寇したロシアのバルチック艦隊を迎え撃ち、完勝した日本海戦の当日で、敗戦までは〝海軍記念日〟と呼ばれていた。元総理は自身が大戦末期、海軍主計将校として台湾に赴任していたこともあって、この日が誕生日であることを大いに誇りにしていて、総理在任中を含む長い公的生活の中で、格別の公務が予定されていない限りは、この日の夕刻には中曽根派の議員を中心に、日頃から周辺にいるマスコミ人や学者・財界人も集まって、私的な誕生パーティを主に赤坂プリンスホテルの木造の旧館で開くのを、慣例にしていた。従って正確にいえば、満101年6か月2日の生涯になる。

臨教審の専門委員として

 筆者と中曽根(以下敬称略)の関係は、満5年に僅かに欠ける総理在任中とその前後の10年余で、そう長いものではなかった。ただその間、中曽根が首相として努力を集中した国鉄分割民営化・税制改革・教育改革を推進するために、〝暴れ馬〟と命名した親しい関係にある政治記者を関係する各政府審議会に送り込んだとき、筆者もその一人として、教育改革を目標に首相直属の特設審議会として設けられた、臨時教育審議会=臨教審の専門委員に起用された。

 各省設置法に定める大型・小型の常設審議会と違って、首相が自身の発意で諮問する特定の課題に答える特設審議会は、独自の設置法を持つ時限的な大型審議会で、ふつう国会承認を要する委員50人で構成される。首相直属とはいえ、関係官庁やその〝族議員〟、関連団体が一定の発言権を持っていて、委員人事は首相の一存では決まらない。臨教審の場合、与党では自民党文教族が嫌ったり、野党では日教組が抵抗したり、公明党=創価学会が忌避したりする委員候補者は、国会対策レベルの折衝段階で排除される。政治記者仲間は、円満居士で共同通信論説主幹という肩書を持つ内田健三はOKだが、とかく口うるさいと定評のあるのはアウトという、至ってわかりやすい仕分けで、アウトの面々は首相が一存で任命できる専門委員に回った。

 正委員と専門委員の区別は、主に最初と最後に開かれる総会に出られるか、四つ設けられていた部会のうち所属する一部会だけに限られるか、という点だ。それを除けば、たぶん日当の額と、勲章を自薦するときの〝経歴書〟に書けば〝得点〟になりうるかどうか、といった俗事中の俗事の違いに過ぎない。夏休み時期と年末年初を除いて3年間、ほぼ週1回の頻度で開かれた実質的論議の場である部会の発言権に差はないから、野人の政治記者仲間には格別の不満はなかった。

派閥政治全盛の時代に

 ただ最後の答申の取りまとめ段階で、総会から排除されているフラストレーションが、論客揃いの専門委員に溜まるのは避けられない。そのガス抜きの目的で、委員と専門委員の合同会議が開かれたことがあった。その場で〝暴れ馬〟仲間の屋山太郎が、日教組系の〝教育学者〟や教育委員会・高校校長会・私学経営者・文部官僚OBなどがクドクド己れの立場を主張するのに腹を立て、業者は黙っていて貰おう、と叫んで満場総立ちになる、笑い話的な〝事件〟も突発したものだ。

 屋山は、筆者が属する基本理念を担当する第一部会ではなく、大学制度を担当する部会に所属していたと思うが、彼は臨教審以外に国鉄分割民営化に当たった臨時行政調査会にも加わっていて、そこでも大活躍した。〝暴れ馬〟仲間では三宅久之も税制調査会に入っていたが、このうち中曽根直系は三宅だけ。屋山はむしろ福田赳夫に近く、筆者は大平正芳―鈴木善幸系と目されていた。三宅や屋山と筆者は、現役時代に同じ記者クラブだったことが多かったし、フリーになってからも顔を合わせる機会が多く、親しかった。

 当時は政治記者は党派・派閥別に色分けされていたし、記者も学者も、論壇で活動する場合は一定の立ち位置を示して、旗幟を鮮明にするのが暗黙の了解事項になっていた。

 なにしろ派閥政治の全盛時代だ。政治記者には、まず政党記者か、特定の政策分野の専門記者か、という区別がある。政党記者なら保守か革新か、政策記者なら財政・社会保障などの内政分野か、外交・軍事などの〝外向き〟かの、棲み分けがある。保守なら、大きな枠組みでは吉田茂→自由党=官僚派と、反吉田→鳩山民主党や三木・松村の国民協同党=党人派の別があり、そこに担当してきた派閥の色彩が加わる。革新なら、社会主義協会を軸とする社会党左派=総評ブロックか、反共の社会党右派・民社党・同盟寄りか、がある。共産党は別の専門領域だった。論壇は大別して保守理念派と現実保守派、共産系と非共産派に分かれていた。

 政治記者の場合、最初に配属された持ち場から2、3回の担当変えを経る中で、適性に応じて政党記者か政策派かが、部内人事を通じて決まっていく。きわどい情報を取るルートができ、自然に得意分野が固まって、そこからが一人前、という感じがあった。もちろん特定派閥の中枢に食い込んでいるが、一定の政策分野にも強い、という記者もいる。保守にも革新にも、突っ込んだ話が聞ける大物政治家がいる、というケースもある。派閥抗争にも政策課題にも得意な領域がある、という記者もいる。必ずしも一色ではなかった。

 社風の作用もある。率直にいって〝社〟の方針というよりは、全社的に受け継がれる集団的空気、より端的にいえは、一つの檻に立ち込める同じ動物が放つ固有の体臭、といった感じが強い。その典型が〝角度をつけた〟記事づくりが習性の「朝日新聞」だ、といえば察しがつくだろう。論壇活動の場合は、当然ながら個人の信条が基本になっていた。

参院選出馬の誘いを固辞

 筆者は安保当時の〝岸番〟が政治記者としての出発点だが、池田勇人内閣の発足当初は〝池田番〟、4年四4月後の池田首相のガンによる急な退陣の当時は総理官邸詰のキャップだった縁で、大平正芳・鈴木善幸の二人、黒金泰美を挟む池田内閣の最初と最後の官房長官との接触が深かった。

 いわゆる〝吉田学校〟組は、政治家も記者も、時代の推移とともにまず池田寄りと佐藤栄作寄りに分かれ、池田の没後は前尾繁三郎組と大平組に分かれた。大平時代になると、〝吉田学校〟OBの前尾組のヴェテランたちは、後輩の大平の下につくのを嫌って、池田と並ぶ〝吉田学校の級長格〟の佐藤栄作寄りに傾く傾向があった。その中で当選回数こそヴェテラン級だが、初当選は社会党の最右派で、〝吉田学校〟出身者ではなかった鈴木善幸は、長老格で大平派に残った。

 筆者は第三次池田内閣を継いだ佐藤首相が女房役の官房長官だけを鈴木から橋本登美三郎に代え、他はそのまま流任させた後も、すでにフリーになっていたが、鈴木との縁を切らさなかった。次の内閣改造で佐藤首相が鈴木を厚相に起用したとき、就任直後に大臣室に呼ばれ、農水族の自分はよく知らない分野だが、どこで特色を出したらいいだろうか、と相談を受けたことがある。そのとき、池田首相は厚生省に児童局を新設し、経済成長の反映で予想される少子化に備えようとして中道に倒れたのだから、その遺志を継いだらどうだろうか、と答えたことを記憶している。

 大平・鈴木との縁はその後も長く続いた。昭和55=1980年の、結果的に三木・福田派の造反で大平内閣不信任が衆議院で可決されて衆参両院ダブル選挙になり、選挙戦中に大平が現職首相のまま急逝する羽目になった参院選の前に、まず政治記者の先輩の戸川猪佐武に声をかけられて塩崎潤と赤坂の小料理屋に、次に大平首相じきじき、第一次大平内閣で官房長官だった田中六助との二人に紀尾井町の料亭に呼び出されて、大正末期から大戦下の〝翼賛選挙〟で落選するまで、祖父が衆議院議員に選出されていた島根地方区からの、参院選出馬を求められたことがある。

 当時はフリーになって9年間務めていたラジオの文化放送のキャスターから、フジテレビのニュースキャスターに転じて間もなかった。それに筆者は一介の政治記者で生涯を通す覚悟で、選挙は念頭にない。こういって固辞したが、祖父の最初と最後の2回の落選とその間の6回の衆議院連続当選を支え、戦後は自身が地元・浜田市の市長を9選だか10選だか務めた、父親の従兄弟である本家の当主が健在だった。総理総裁直系の公認候補だし、選挙戦中の大平急逝の同情票集中で自民党が圧勝した点を考えれば、別に同じ地方区で公認を狙っていた地方議員がいて、仮に彼が無所属で立っていたとしても、少なくともこのときは当選できたに違いない。

 当時、この公認志望者が大平の考えを知っていたかどうかは知らないが、中央政界では知る人は知っていたようで、福田赳夫に、キミは大平クンの隠し玉でぎりぎりまでテレビに出て電撃的に出馬すると承知している、と直接イヤ味をいわれたことがある。出馬希望者の親分格の竹下登は、パーティの場かどこかで筆者を広間の隅に誘って、(出馬を)どうかこらえてつかあさい、とわざとらしく地方言葉で懇願されたこともあった。大平派の大幹部の鈴木善幸や伊東正義らは、当然この経緯を熟知していただろう。

鈴木内閣当時の閣僚たち

 ダブル選挙中に大平が急逝し、総選挙で落選の非運に遭った西村英一副総裁が、田中角栄の意向も酌んで奔走して、鈴木善幸総理総裁が実現したとき、鈴木は大平の戦時中からの盟友で、大平内閣の幕引き官房長官だった伊東を、大平後継の正統性を示す証として、固辞するのを押しきって外相に迎えた。しかし伊東は間もなく、日米安保条約の軍事的性格の有無を巡って見解が違う、として鈴木首相に辞表を叩きつけて、閣外に去った。

 その後に、伊東の地元の会津若松で自民党の支部大会かなにかがあり、講師に呼ばれて控室で伊東と話したことがある。オレは糖尿病がひどいし、家内は病弱だ。無理だと断ったのに強引に外相にされた。とても目前に迫るフィレンツェのサミットに慣例通り夫婦でいける状態じゃないから、口実をみつけて辞めたまでさ、という。半信半疑でいたら、演壇の横に座っていた伊東が、突然低血糖の発作で半昏睡状態になり、秘書が手慣れた姿で角砂糖で糖分を補給したらすぐに回復したので、なるほど、と感じたことがあった。

 鈴木内閣で通産相を務めた、日本経済新聞政治部OBの田中六助は、池田内閣時代に大平・黒金と〝秘書官トリオ〟と呼ばれたが、前尾系で大平と距離ができた宮沢喜一と、ポスト鈴木で旧池田派・宏池会のトップを争うと見られていた。宏池会を受け持つ記者にも〝一六戦争〟と囃し立てる傍観派、のちにNHK会長になった島桂次が筆頭の大平・鈴木・田中寄りの多数派、前尾・宮沢に近い少数派が生じたが、筆者は〝一六〟双方と立ち入った話ができる位置にいた。当時田中は、持病の糖尿病が急速に悪化して、視力が不自由になってきていた。中曽根内閣になった直後のなにかの場で二人きりになったとき田中が、ボクは宮沢クンと張り合うつもりもないしその状態にもない、彼にボクの真意を伝えてくれないか、と筆者にいったこともあった。

 宮沢といえば、池田とは二黒の亥の同い年で盟友関係にあり、当時〝財界四天王〟といわれた日経連会長・日清紡社長の桜田武が、池田没後も同郷広島の縁でPTA会長格で後ろ盾になっていた。筆者は桜田と、「東洋経済」誌巻頭の売り物の匿名座談会で、〝財界人〟と〝政治記者〟として、カレーライスをつつきながらしばしば同席したが、桜田が宮沢に対して、人に使われる秘書官としては有能だが人を使うことができない、とニベもなくいうのを聞いたことがある。厳しいな、と思ったが、後になってみると、名経営者の至言、というべきだったのかもしれない。

酷評とは裏腹に高まった期待

 善幸サンに戻って、彼は大平急逝の急場のピンチヒッターの感がつきまとっていたし、ロッキード事件で〝闇将軍〟といわれた田中角栄の〝角影度〟が強いとされたから、反田中の福田・三木系は、一貫して反発・抵抗した。福田に近い屋山は伊東外相の辞任当時、「文芸春秋」だったかに「暗愚の宰相 鈴木善幸」という強烈な一文を書き、筆者が次号だったか「諸君!」の翌月号だったかに、鈴木弁護論を書いたこともあった。

 鈴木内閣に、当時は軽量ポストとされていた行政管理庁長官で入閣した中曽根に向ける世間や政治マスコミの視線も、厳しかった。〝三角大福中〟といわれた中でただ一人、総理総裁になれず、鈴木にさえ遅れをとった、と酷評する向きが少なくなかった。特に鈴木が任期の終わりを迎えたころ、河本敏夫・安倍晋太郎・中川一郎が総裁選への出馬態勢を整える中で中曽根が、鈴木総裁が再選を望むなら反対しない、と表明したときは、これで中曽根の目は将来にわたって消えた、という見方が横行した。

 だが鈴木としばしば接触していた筆者は、池田首相が三井銀行の佐藤喜一郎をトップに据えて、首相直属の特設審議会で着手した臨調方式による行政改革が、池田後継のはずの佐藤栄作政権によって無視されたことを残念に思うからこそ、実力者の中曽根に臨調行革の復活を託したのであって、土光敏夫を担ぎ出して第二次臨調をスタートさせた手腕を高く評価している、という説明を、鈴木から繰り返し、直接聞いていた。また大平が三木内閣の蔵相時代、政権主流の三木・福田の強い意向で、財政法が明文で禁じている赤字国債を発行せざるをえなかったことを悔いて、自らの政権で赤字国債発行をゼロにしようとして中道に倒れたことを思い、自分がこの遺志を果たそうとしていること。それが経済状況で達成不能なら、自分は一期限りで身を引いてそれが実現できる後継者に後事を託するつもりであること。この二点も、早い時期から再三聞いていた。

 当時筆者は原健三郎の肝入りで、中曽根と彼の盟友の某大物記者の四人で、時折情報交換の懇談をしていた。原は筆者が衆議院記者クラブにいた〝60年安保国会〟で、衆議院議長で安保承認の強行採決をした清瀬一郎が池田政権で再任され、社会党から出ていた中村高一副議長と交代で副議長になったときいらい、懇意にしていたのだ。この席で、鈴木首相の池田―大平に対する思い、中曽根に寄せる期待は、よく話題になったものだ。

中曽根政権実現は確実、そして楽勝

 中曽根が〝鈴木再選支持あるべし〟と発言し、世間がそれを酷評したとき、筆者はたまたま中曽根の地元の群馬県榛名町の商工会から、定例行事である秋の講演の講師に呼ばれていた。講演後の質疑応答で、今回の中曽根発言と世間の評判についてどう思うか、と聞かれて筆者は、

 鈴木首相にとって臨調方式による行政改革は師匠である池田勇人が提唱したのに、彼の没後に放置されていた宿題であって、是非ともこれを再び軌道に乗せたいと思い、長期的視点で実力者の中曽根に任せたこと。 

 同様に赤字国債の発行停止は、同志だった大平正芳が果たせなかった悲願の達成で、それがこの年末の予算編成で経済情勢の悪化で実現不可能とわかった時点で、鈴木は潔く身を引き、後継者に引き継ぐ覚悟であること。

 現に後継の総理総裁の座を狙って手を上げているものはすべて反鈴木、いいかえると反大平・反田中角栄のグループで鈴木の意志を継ぐ立場にない。彼らが同士討ちになれば、鈴木が後継者と考える存在が断然有利になるわけで、そうした点を考えれば、近く中曽根政権が実現することは確実と思われること。

 このように説明したものだ。

 聴衆の中には、もちろん同じ地元の福田赳夫系もいただろうが、中曽根支持者も少なくなく、直ちに報告が届いたのだろう。中曽根からすぐ手紙がきて、自分も大兄と同様に考えている、大兄の説明で納得がいったという支持者が多い、と書かれていたものだ。

 当時の自民党の総裁公選規定では、立候補に国会議員50人の推薦が必要で、中曽根直系の議員だけでは僅かに足りなかった。しかし反田中―反大平勢力が河本・安倍・中川と乱立する中で、旧大平・旧田中派が後押しする鈴木後継の中曽根の安定度は抜群で、一応公選の形になったものの、楽勝に終わった。

分割民営化と“椎名裁定”

 中曽根は、鈴木の〝宿題〟を万全に達成した。政権初年度は困難だったが、次からの二年は、赤字国債を発行しなかったと、記憶している。〝土光臨調〟では、国鉄の分割民営化、電電・専売の民営化を実現した。

 最大の成果は、なにかといえばスト権を振り回し、国民の足、生活物資の流通を止めて憚らない国鉄労組の横暴を、分割民営化で一掃した点だ。昭和50=1975年暮れの、8日間続いた国鉄労組の〝足のスト〟の直後に、当時の三木武夫首相に私邸に呼ばれ、どうしたものか、意見を聞かれたことがある。筆者は、当然ながら解散―総選挙で民意を問うべきでしょう、といった。すると三木は、いま選挙をすると自民党が大勝してしまう、これは日本の政治のためによくないから解散はできない、といったものだ。与野党伯仲の瀬戸際で、いつ寝返るかもしれない、という姿勢をチラつかせ、その〝芸〟一つで政界を渡る男と承知はしていたが、仮にも現職の自民党政権の総理総裁なのに、よくもよくも抜け抜けというもんだ、と呆れ返ったものだ。

 当時の渋谷・南平台の三木邸には、〝番記者〟が常時詰めている表門の裏に秘書で女婿の家があった。裏の道から非常階段でその家の二階のDKに通り、隠し扉を開けると三木邸の奥の間にポンと出られる、という吉良上野介の屋敷の抜け道のような仕掛けがある。筆者も事前に指示されて、そこから三木邸に入ったが、その前年の秋に、例の〝金脈・人脈〟問題で田中角栄首相が退陣し、後任の選考が椎名悦三郎副総裁に任されたとき、この通路から民社党の春日一幸・佐々木良作・麻生良方らが夜な夜な三木邸を訪れ、いざとなれば社公民三野党が自民党を割って出た三木を担ぐ構えを見せた。三木はこの情報を、民社党を利用して自民党内のごく一部に流し、ひょっとするとひょっとするぞ、と思わせて〝椎名裁定〟をもぎ取ったのだ。

 記者時代に創設時の民社党を担当したし、大阪の駆け出し時代から地元選出の西尾末廣や西村栄一と親しく、フリーになってからも民社党に太い情報パイプがあった筆者は、リアルタイムでこの事実を詳細に知っていた。しかし現役記者はまったく気がつかなかったようだった。筆者は三木政権成立直後に、社会党の河上丈太郎側近の石原萌記が主宰していた「自由」誌で、渡邉恒雄・屋山太郎と〝三木武夫最後の賭け〟と題する鼎談をして、この事実を明らかにした。のちに三木とも椎名とも近い、筆者の産経新聞の先輩記者でやはりフリーになっていた藤田義郎が、著書「椎名裁定」(昭和54=1979年 サンケイ出版刊)で明らかにし、城山三郎が小説「賢人たちの世」で引用したが、いまでもこの事実を知らないまま、平然と大間違いのままモノを書いている記者・評論家・政治学者が少なくないのは、困ったものだ。

 善幸サンから中曽根政権への経緯も、拙著「政治家の風景」(平成5=1994年 学習研究者刊)で一通りは書いている。しかし絶版になって久しいし、必ずしも世間周知のことにはなっていないので、中曽根元首相の大往生に際し、再び紹介することにした。

(月刊『時評』2020年2月号掲載)