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『日本列島改造論』出版50周年記念回顧録/小長 啓一

「角さんのために」 熱気を凝縮したあの時代

こなが けいいち/昭和5年12月12日生まれ、岡山県出身。岡山大学法文学部卒業。28年通商産業省入省、46年通商産業大臣秘書官、47年総理大臣秘書官、59年通商産業事務次官、平成3年アラビア石油会社代表取締役社長、15年同取締役会長、AOCホールディングス株式会社取締役社長、16年同相談役、17年財団法人経済産業調査会会長、19年弁護士登録(第一東京弁護士会)、20年東急株式会社社外取締役、一般財団法人産業人材研修センター理事長。
こなが けいいち/昭和5年12月12日生まれ、岡山県出身。岡山大学法文学部卒業。28年通商産業省入省、46年通商産業大臣秘書官、47年総理大臣秘書官、59年通商産業事務次官、平成3年アラビア石油会社代表取締役社長、15年同取締役会長、AOCホールディングス株式会社取締役社長、16年同相談役、17年財団法人経済産業調査会会長、19年弁護士登録(第一東京弁護士会)、20年東急株式会社社外取締役、一般財団法人産業人材研修センター理事長。

今から半世紀前の1972年6月、田中角栄通商産業大臣(当時)著の『日本列島改造論』が出版された。国土の将来像を全く新たな観点で捉えた同書は、93万部を売り上げたとされ、その広範かつ多角的な視座は現在の政策にも形を変えつつ継承されている。国土グランドデザインのバイブルとも言える同書は、いかなるプロセスで作成されたのか。小長啓一氏に、当時の熱気を振り返ってもらった。
(この原稿は、小長啓一氏の解説をもとに、編集部にて作成した内容を掲載しております。) 


島田法律事務所 弁護士
小長 啓一氏

25年の節目に集大成を

 私が田中さんに声をかけられたのは、出版の前年に当たる71年の秋、田中さんが通産大臣を務めていたときでした。翌年が、47年に田中さんが政界入りしてから25年の節目に当たることから、これまでご自身が取り組んできた国土開発の各種政策を取りまとめ、集大成として一冊の本にまとめたい、と相談されたのです。ちょうど長らく懸案だった日米繊維交渉問題が解決したため、政務として一息ついたころではありました。日米繊維交渉は、前々任の大平正芳大臣、前任の宮澤喜一大臣をもってしても解決に至らぬ難問でしたが、田中さんは就任後、2カ月半のうちにこれを解決され、まさに一仕事終えて積年の思いを形にする好機だったのです。

 が、それ以前に私は、国土開発について田中さんに並々ならぬ思い入れがあると強く実感したのも確かです。というのも田中通産大臣秘書官に就任して数日後、田中さんから私に、こんな問いかけがありました。「君、生まれはどこかな」と。「岡山県です」と答えると、「そうか岡山か。あのあたりだと雪はロマンの対象だよナ。川端康成の『雪国』の世界だよ。トンネルを越えたら雪が降っており、どこかの料亭で美人の酌で一杯のみながら雪を愛でている…テなもんだろう。しかし新潟生まれの俺にとって雪は、生活との闘いそのものなんだヨ」と語っていたのです。

 その一言を聞いて、私は目を覚まされた思いでした。それまで私自身、秘書官になる前の二年間は、立地指導課長として日本各地を飛び回り、とくに一足早く工業化が進んだ臨海部ではなく、内陸部にどのような産業を誘致すべきか調査、研究していたため、多少は日本の国土や地域の状況を見聞してきた経験が、秘書官としても役立つのではないかと内心自負していたのですが、田中さんの言葉を聞いて、「経験、実績に天と地の差がある。初めから出直し、積み上げが必要だ」と痛感しました。私は田中さんが成立させた議員立法33本を読み直し、1968年に田中さんが政官の有志と共同で策定した『都市政策大綱』を精読し、田中さんの描く政策の基本構造を頭に叩き込みました。

 その田中さんが、ご自身の国土開発政策との係わり、歩みを一つにまとめて世に問いたいというのです。私は「手伝わせていただきます」と即答していました。

チーム一丸で独演会を傾聴

 では、具体的にどのように執筆活動を進めるのか。ともかくも出版社、そして実際に記述にあたるライターの選定です。まず、大手新聞社は対象から外すこととしました。大手紙から選定すると、その社は喜び親・田中になるかもしれないが、選から漏れた社は反・田中に傾きかねない。であれば当時、社長が新潟県出身の日刊工業新聞社にお願いしようと結論し、田中さんの声がけからわずか2日で、同社の応諾のもと、ライターとなる優秀な記者10人の協力を得ることができました。それに政治秘書の早坂茂三氏、私と共に通産省の若手官僚若干名から成る約15人のチームで作業に着手しました。

 作業の第一は田中さんのレクチャーを聞くことから始まります。大臣室の大テーブルを囲んで座り、一日数時間ずつ、計4日間。しかも積年の持論を語る田中さんは、手元に資料を持たずに、ご自身の頭にあった幾多の出来事や理念、政策の数々を、水が流れるが如く朗々かつ滔々と喋りました。現在のように録音機材がほとんどなかった時代、並み居るメンバーは皆、必死で書き取りました。それでいながら田中さん独特のユーモアを交えた語り口と構想の気宇壮大さに時間のたつのも忘れるほどで、その集中と熱気に私も圧倒されたのを覚えています。

 その後、各自の分担を決め、それぞれが期日に向けて執筆に取り掛かりました。平日は公務が終わった後、残りは週末の時間を使って原稿用紙に向き合う毎日です。しかも、当初は72年秋ごろの刊行を想定していたため比較的日程に余裕があると考えていたのですが、同年初夏に予定されている自民党総裁選に立候補する田中さんの政権公約として活用しようという話になり、予定を大きく繰り上げ6月発刊となり、より急ピッチで進めねばならなくなりました。

 こうした作業などはそれまで経験してきた公務とは全く異なる作業のため、当初は少なからず戸惑うこともありましたが、田中さんの思いのたけを文字化して世に問うという企画ですから、私自身大いにやりがいを感じていたのは確かです。同時に、日刊工業の社長自らが抜擢した記者各位を激励したこともあり、皆ある種の使命感をもって執筆に傾注し、チームの士気は大いに上がり、一気呵成にこぎ着けた感があります。それ故、私の方から、皆を急がせたり督励するなどということはほとんどありませんでした。その必要がないほど一丸となっていたのです。関係者一同の士気――今風に言えばONE TEAM――がプロジェクトの成否を大きく左右するのは、昔も今も変わりません。

 各省庁の協力に見る田中さんの人間力

 ただ、作業を進める上で最大の懸念となったのは、文中もしくは記述の裏付けとなる、数々のグラフやデータなどの資料類の入手です。内容が通商、産業、エネルギーから運輸、建設まで極めて広範にわたり、通商産業省関連の事項は全体の4割ほどにとどまり、省内部の資料だけではカバーしきれず、どうしても運輸省、建設省、そして経済企画庁(いずれも当時)の資料が必要になりました。今よりも省庁間の垣根が高いとされていた当時、通産大臣の出版する書籍に、他省庁が資料を提供してくれるかどうか、その点が書籍の質を左右する大きなポイントとなったのです。

 私は、対象となる各省庁の幹部に電話の前で頭を下げながら、事の次第を話して協力をお願いしました。ところが、私の心配は杞憂で、各省庁の幹部はいずれも快く資料提供に応じてくれました。曰く「あの角さんが構想を本にまとめるのか、それなら全面協力しましょう」と好意的な反応でした。「あの角さんが」という言葉に、私は驚きました。おそらく、議員立法33本を立案し、議論する過程で田中さんが当時の霞が関各省庁の若手官僚とひざ詰め議論しているうちに、政と官の垣根を超えた同志的な気脈が醸成されていたのではないかと思いました。さらに言葉を続けて「いつ出版するのか。その時点で公表できる最新の資料、数字を提供しましょう」と言ってくれました。われわれチームは勇気百倍、「これは良い本になる」と確信しました。