
2025/11/10
石破政権発足後、初となる〝骨太の方針〟においては数々の主要な柱と並び、今般の物価高対応と米国関税措置による国内産業への支援を背景に、「賃上げを起点とした成長型経済の実現」が主要な政策テーマとして位置付けられている。
その実現に向けては、中小企業支援、適正な価格転嫁、労働市場の流動性促進など多様なメニューが並ぶ。その多くがこれまで日本の産業界において実践が求められてきた内容だが、政府はそのための支援措置を設けるなど本腰を入れる構えだ。井上裕之次官に、施策の要諦について解説してもらった。
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中小企業の賃上げ推進を
森信 本年6月に閣議決定された〝骨太の方針〟こと「経済財政運営と改革の基本方針2025」においては、短中・中長それぞれの方針が設定されていますが、このうち短中期においては「賃上げを起点とした成長型経済の実現」を掲げています。
賃上げは、今般の国民的課題の筆頭だと私は捉えていますが、基本的には民間企業の判断に拠るもので、それに対し政府の役割はどの部分にあるのか明確にすべきであるのと、また過去の指標をみると日本の産業界は労働分配率をむしろ下げてきた、という印象があります。これらの点について次官の認識をお聞かせ願えればと思います。
井上 継続的に賃上げするには、結局のところ経済のパイを大きくしていかねばなりません。長くデフレの時代が続きましたが、これを成長型経済の軌道に乗せるというマクロ政策上の大命題があって、これはまさに政府、そして中央銀行の役割となります。
その上で賃上げそのものを支援する場合、一案として個々の企業の生産性向上を支援するという方策があります。政府は今回、この方向性にのっとり「中小企業・小規模事業者の賃金向上推進5か年計画」を策定しました。ことに生産性向上がなかなかはかどらないと言われる飲食業、宿泊業、小売業など計12分野の業種について、詳細なプランと助成措置を取りまとめています。
森信 具体的にどのような内容でしょう。
井上 例えば省力化投資に対する補助金や税制による助成等、ですね。また、中小企業における価格転嫁の推進も大きなポイントです。
森信 それは重要な点ですね。
井上 はい、上流にあたる親会社だけでなく、サプライチェーン全般で取り組むべき課題です。価格転嫁に関する各種ガイドラインを取りまとめるとともに、国や自治体が発注する官公需案件については率先して価格転嫁を実施していく方針です。助成措置と合わせ、価格転嫁のパッケージなども作成しました。これはまさに国がやらねばならないことです。
同時に、最低賃金の引き上げを図ります。今回、最低賃金を2020年代に全国平均1500円まで引き上げる目標を打ち出しました。最低賃金は都道府県ごとに決まっていくものですが、真面目に働いて賃金をもらい安心して生活できる水準にしていくことが大切です。
また国としてできることと言えばさらにもう1点、労働市場改革があります。全体として賃金水準が上がっていくためには、リカレントやリスキリング等によって個々人のスキルを高めていき、それに対応して年功序列型雇用ではなく個人の能力に見合った職務給が手当てされれば、以前から指摘されてきた労働市場の柔軟化が図られ、生産性の高い職業分野に労働力が移っていく、という構図が期待されています。
これら一連の推進策を講じることで、個人としては適正な報酬を得、社会全体として生産性の向上が実現するのでは、と思います。給付や物価高対策などの一時的な経済対策よりも、継続的に国民の所得を上げていくにはしっかり構造的な賃上げを実現する、そのための生産性向上であり経済成長です。
賃上げに取り組む企業を支援
森信 次官がご指摘された個人のスキル向上による労働市場の流動化、これは非常に重要だと私は思いますし、社会全体でもその必要性は共通認識化されていると思いますが、個々の企業からすると、社員がリスキリングによってスキルを高めるとより高い報酬を求めて会社を辞めてしまい、教育を施した企業にとってはかえって損失になる、こういうジレンマはないでしょうか。
井上 従来型の働き方のように、社員の終身雇用を前提とすれば、キャリアアップを求めて社員が流動化することについては現実的なハードルが多々あると思います。
一方で人口減により人手不足の現在、流動化が盛んになれば、企業としては高い職能を身に付けた人材を新たに雇用する機会が増えるとも言えるでしょう。人材獲得競争がより激しくなっていく中で、社員の立場からすると、自身の能力向上を支援してくれる会社の方が選択しやすいと思います。このように、労働市場が柔軟化してスキルの高い人材が増えた方が、会社も人材を採用しやすい、個人も新たな職場で働きやすい、社会全体でこうした好循環の構築が求められているのではないでしょうか。
森信 私は、数ある施策の中で政府がある程度力を発揮できるのは最低賃金の引き上げだと思います。ただ、韓国では数年前に最低賃金の大幅な引き上げに踏み切り、結果として中小企業の倒産を招くなど経済に影響が生じました。この点、日本政府としてもバランスを取るのが難しいと思います。
井上 確かに、〝骨太の方針〟においても最低賃金1500円とは、高い目標であると自ら明記しているほど、達成に向けては相当な努力が必要だと政府も認識しています。また、ご指摘のように中小企業のご負担もあるので、〝骨太〟の中でも「生産性向上に取り組み、最低賃金引き上げに対応する中小企業・小規模事業者を大胆に後押しする」と書いてあります。
前述したように、生産性向上が求められる業種群に絞って重点的に支援するという方策は、つまるところ最低賃金引き上げにも効果的だと思いますし、実際に各都道府県における目安の金額を超える取り組みをしている企業に対しては、補助金で重点的に支援することを決定しています。
2024年に徳島県が過去最大の上げ幅となる84円の引き上げを決め、さらに中央の目安を上回る企業に助成金を手当てする方針を打ち出しましたが、これを一つの先例として、政府としても今後、具体的な制度設計をしていく予定です。
もりのぶ・しげき 法学博士。昭和48年京都大学法学部卒業後大蔵省入省、主税局総務課長、大阪大学教授、東京大学客員教授、東京税関長、平成16年プリンストン大学で教鞭をとり、17年財務省財務総合政策研究所長、18年中央大学法科大学院教授。東京財団政策研究所研究主幹。著書に、『日本が生まれ変わる税制改革』(中公新書)、『日本の税制』(PHP新書)、『抜本的税制改革と消費税』(大蔵財務協会)、『給付つき税額控除日本 型児童税額控除の提言』(中央経済社)等。日本ペンクラブ会員。